トークイベントレポート

『映画はアリスから始まった』
松岡葉子さんトークイベントレポート

2022年7月30日(土)アップリンク吉祥寺

字幕完成までにトータルで半年くらいかかった

今日は映画をご覧いただいてありがとうございました。私も皆さんと一緒に劇場で観て、改めて情報量の多さに驚きました。翻訳している時点でももちろんそれは感じていましたが、やっぱり本当に多いですね。字幕にとりかかる前に翻訳者のもとには、映像素材と台本が送られてきます。まず台本を見て、ちょっとびっくりしました。何かの間違いじゃないかなって。というのは台本のボリュームが、通常の倍以上、400ページ近くあって、100分少々の映画で400ページ弱の台本って多いなぁ、何かの間違いじゃないかな、っていうか間違いであってほしいなと思ったんですけれども、まずその時点でこれはちょっと時間がかかるなと覚悟しました。それに公開までの条件がいろいろと変わったり(※①)、とかありまして、結局トータルで最終版字幕の完成まで半年くらいかかったと思います。通常の映画は、台本の翻訳だけに限って言うと、2週間程度で終わります。

  • ※①本作は、当初、岩波ホール公開予定だった。

どうして時間がかかったのか

ひとつはですね、この映画見て皆さんお気づきになったかどうか分からないですけれども、登場人物、喋っている人の名前のテロップは、まずオリジナルの言語がありますよね。英語で名前が入っていて、それに字幕が付くっていうのが普通の形なんですけれども、気が付いた方いらっしゃるかどうか分かりませんが、この映画、人物名の英語テロップが入ってないんですね。どうしてかっていうと、実は一番最初に届いた映像素材には人名や年号のテロップが全部入って、さらにフランス語の喋りの部分には英語字幕が入って、文字だらけの映像だったんです。そこに日本語をのせていくと、映像そのものが見られない、文字で邪魔しているって感じで、それでテキストレス、つまり字幕の入っていない映像を取り寄せようってことになり、英語字幕とテロップの入っていない映像が届きました。すると少なくとも私の希望としては、例えばフランス語で喋っているところの英語字幕はとってほしい、だけど人名は入れておいてもらわないと誰が誰だかわからない。ところが届いたのは、フランス語のインタビュー部分の英語字幕がないのはいいんだけども、人名の、あと年号がちょっと小さく入っていましたよね、アリスのインタビューのところに、それもなんにもないんです。え! ちょっとこれは取りすぎっていうような、まっさらな映像が届いてどうしようと思いまして、まずセリフの部分、喋っている部分から先に訳したんですね。で、あとで、人名や年号のテロップ入れるのをどうしようと思って、結局テロップ入りの映像と入っていない映像の両方を並べて、この人は誰?というのを調べていかなきゃならない、一体何をやっているんだろうみたいな。二度手間三度手間がかかった。そういう意味でもこれは特殊な例です。こういうことって今までありませんでした。字幕の入っていない版を要求したら、一切合切全部取った版が届いた。そういうことは初めてです。

情報の多さ

情報整理は大変でした。歴史、アリスの過去を辿る、人脈を辿る、それからアリスの監督した作品を探すこと、今の人たちのアリスの受け止め方、どういうふうに受け止められているかっていう、大きくいって三つの柱があって、それぞれが時系列的に入り乱れている。ひとつの話、例えば作品を探しますよっていう話をずーっとして、はい次、アリスの親戚を探しますっていうような作られ方をしていなくて、ひとつの話が途中でプツっと切れて、別の話に変わり、またプツっと切れて、別の話に変わって。入り乱れているので、その整理です。整理には気を使いました。つまり、誰が何の話をしているのか分からなくならないように、っていうのが一番だったかな。

最終的に劇場用字幕版が完成して、もうそれで終わりのはずなのに、改めて見る機会があるたびに、翻訳者の習性で、ここちょっと直したいなというのが出てきます。完璧とか完成とかいうのはないですね。ちょっとここ、こう直すともうちょっと分かりやすくなるのになあ、とか。終りがありません。

聴き手からの「字幕なしで見た時と印象の変わる映画はあったか」の質問に対して

初見のときと、字幕をつけてみて、映画全体の印象が極端に変わるっていうことはあんまり経験がありません。思いが深まるっていうことはあるけれど、でもガラッと変わるっていうことはほとんどない。例えばあるキャラクターに対して、無字幕で見たときに抱いた印象と、翻訳をし始めてからではちょっと違う、思っていたより意地悪だったとか、思ったよりもいい人だったとか、そういう細かいところはあります。それはよくあります。最初に無字幕の映画を台本と突き合わせながら見ていくのですが、そこで抱いたイメージと、それから台本を精読していくと当たり前だけど理解度が深まるので、特にキャラクターのとらえ方っていうのは変わってきます。だけど映画の骨格そのものが変わるほど大きな変化っていうのはあんまりないですね。

聴き手からの「女性の監督と男性の監督との違いがあるか」との質問に対して

それはないです。私に限っていえば、あんまり女性だから男性だからこう撮り方が違うとか、感性が違うとか、そういうふうに感じたことはないですね。

聴き手からの「映画の字幕翻訳家になりたいと思っていたのか」との質問に対して

いえ、字幕翻訳という仕事があるっていうか、それが自分の手の届くところにあるとかいうふうに思ったことはありませんでした。遠い世界の出来事で、自分が関わるようなことではないっていうかな。積極的に自分から例えば翻訳者になりたいとかいうふうに思ったことはなくて、たまたま就職した映画会社で字幕の仕事をやらされたのがきっかけです。その会社で、私は映画の宣伝をやっていて、小さい会社で人が少なかったので、他にも何でもやらされて、字幕のチェックに携わったり、社長が字幕を訳すのにご一緒させていただいたり、社長に生意気な口きいて、こういう訳はどうでしょうかと言って睨まれたりとか。でも、わりとさっさとその映画会社を辞めて、ちょうどその頃、本当にラッキーだったと思うのですが、運命のいたずらで、ちょこちょこと、「字幕できるの? やらない?」と、お声がかかって、本当に何も知らないのによくやったなと思います。その頃つけた字幕は恥ずかしくて見たくもないけど。そういうことから字幕をやるようになりました。

字幕翻訳者の未来

今、映画美学校というところで字幕翻訳の講師をしています。映画美学校に映像翻訳講座というのがあって、たぶん今日も何人か受講生の方が見えてくださっているけれども。それこそアリスの話じゃないですけれども、昔は字幕を教える学校はなかった。監督を教える学校がなかったのと同じように。学校に入ってやるということじゃなくて、それこそ叩き上げですよね。現場に入ってそこで覚えていく。失敗を繰り返しながら、形になっていくみたいな。今は映画翻訳学校というのができまして、メディアも増えたし、作品も増えているし、そういう意味でも需要がある。だからこそ翻訳者が育ってほしい。映像業界としても翻訳者が求められているのかなと思います。

「私は銀幕のアリス」を二十年前に訳していた

字幕はどちらかというと日本語力。例えば美学校でガイダンスみたいなことをやるんですけど、いつも英語の実力はどのくらい要りますか? という質問を受けます。それは数値化できるものではないんです。要は読解力の問題なので、台本を読む力、映像を読み解く力、それが深ければ深いほど良い字幕ができる。読解力っていうのは当然のことのように日本語能力に結びついてくるわけです。英語をいかに上手く身につけても、よく理解できても、それを字幕として読める日本語にしなければならない、っていうのはこれまた違う。普通の翻訳とは全然違うもの。実は私、この本(書籍「私は銀幕のアリス」を掲げて)、20年前に訳していました。偶然ですね。映画化というのはちょっとヘンですけど、同じテーマでアリスの映画の字幕をつけるようになるっていうのは、すごい運命のいたずら。面白いなと思います。

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