トークイベントレポート

『映画はアリスから始まった』
斉藤綾子さんトークイベントレポート

2022年7月31日(日)アップリンク吉祥寺

本作の特徴~
何度も見直す・ミステリー仕立て・今の映画との接点

初めてこの映画をご覧になる方がほとんどだと思いますけれども、びっくりなさっているのではないかと。映画史を知らない人にとっては、映画に込められた情報の多さ、たたみかけるような情報、それに監督の情熱が印象的だと思います。それも含めてこの映画は何度も見直していく映画ではないかと。もう一つは、アリス・ギイは女性映画史や初期映画史を調べたことがあれば、よく知っている監督ですが、いわゆる教科書レベルの映画史になると彼女の名前が消えてしまう、この映画は、それはなぜかという一つの謎を解く、ミステリー仕立てにもなっていると思います。そこも私はとても好きですけれども、もう一つ、今の映画との接点を見つけているという点もこの映画の優れたところじゃないかなと思います。アリス・ギイはこの映画の中で説明されてたくさんの情報があるので、私が特に付け足す事はないと思うんですが、なぜアリス・ギイが映画史の中から忘れ去られてしまったのかについて、少し振り返ってみます。映画史は教科書で考えたときに、リュミエールとメリエスから始まったというのか通説です。例えばジャン=リュック・ゴダールの映画でも言及されますが、リュミエールとメリエスが、映画を成り立たせる要素として、リュミエールが代表する技術的に写真からきている再現や記録の機能が一方にあって、もう一方が、メリエスが代表するファンタジーですとかスペクタクル、見世物の魅力の部分があり、その重要な要素の源としてこの二人が代表する歴史が語られてきたわけですね。

初期の映画にはクレジットがなかった

アリス・ギイは最初の女性監督というだけではなく、最初に物語映画を作ったと言われています。映画の中でも、『キャベツ畑の妖精』という映画が1896年の彼女の最初の作品としてクレジットされています。映画の中でアンソニ―・スライドというアーキヴィストが、無声映画時代にたくさんのパイオニアの女性たちがいることが判り注目した、と言っています。にもかかわらず歴史の教科書でアリスの名前が消されてきたのは、一つに歴史家は、本人の証言や雑誌の情報などだけでは信用せず、文献や実際のフィルムが確認できないと歴史として認めない、というところがあるわけです。それに加え、なぜ初めの頃の映画史を再構築するのが難しいかと言いますと、最初の頃の映画は非常に短いだけではなく、「クレジット」そのものがほとんど付いていなかったわけです。監督とか役者のリストも含め、クレジットが出てくるようになるのは1909年か、1910年くらいからだと言われています。アリス・ギイの仕事の多くを占めるフランス時代は、ちょうどこの時期に重なっているのです。

もう一つは、1896年の『キャベツ畑の妖精』は、映画の中では(1896年)とクレジットされていますが、正確に言えばこのバージョンは現存していません。実は、長い間1902年の別のバージョンしか確認されてこなかったために、アリスの証言は信憑性がないとされてきました。しかし1996年にスウェーデンの映画協会でプリントが見つかり、それが1900年版の『キャベツ畑の妖精』であるということが確認されました。その1900年版は、1896年の作品のほぼリメイクだと言われています。最初期の映画史のややこしさなのですけれども、初期の映画史では一本ヒットが出るとどこの映画会社も作る、つまり同じような映画がたくさん作られるということがありますし、上映するプリントはヒットすればすぐダメになってしまうので、リメイクが多く作られます。それが、まったく同じものか、微妙に違うのか、など現存ブリントがないなか資料で確認するのはとても難しく、それを証明することのハードルが高くなってしまうのです。さらに、『キャベツ畑の妖精』がアリス・ギイの作品だとアリス本人が彼女の自伝で主張したということもあり、長い間映画史家の間では議論になっていたのです。

アリス・ギイによる映画の作り方は時代に先行していた

アリスが女性であったことが影響し、ゴーモン社のカタログからは消し去られてしまいましたし、自伝というリソース以外に資料がなかったために、歴史家が認めずに、映画史の教科書的な文献からアリスの映画が別の監督にクレジットされたり、多くの間違った情報が記述されてきたわけです。そういったことも含めてこの映画の中では1896年の『キャベツ畑の妖精』が、1900年に見つかったプリントとほぼ同じであろうという説を支持しています。私個人的には、彼女が最初に物語映画を作ったかどうかということを証明することより、もっと重要なことは、彼女が本当にものすごい量の映画を作っていて、いろいろな意味で先駆者だったという点です。

この映画の中でも言っていますけれども、初期の頃は、アリスはレオン・ゴーモンの秘書をやりながら作っていた。それも彼女の場合は実はカメラマンを雇っています。というのは、彼女が映画を作り始めたときのカメラは大きな60ミリカメラでしたし。一方、初期の映画では、例えばリュミエール兄弟にしても、だいたい作る人がカメラマンを兼ねていた。例えばアメリカ初期映画で『大列車強盗』を撮ったエジソン社のエドウィン・S・ポーターは、カメラマンとして始めて、映像を作っていました。ジャネット・スタイガーという研究者によれば、だいたい1906年ぐらいまでそれが中心の製作システムでした。その後に1907年から1909年ぐらいまでにディレクターと呼ばれる監督、現場を仕切る人が出てきて、その後1909年以降は、いわゆるハリウッドシステムという、ディレクター・システムと呼べるような分業システムが出来上がります。それは、監督がいて技術の人がいてカメラマンがいてというようなユニット制、日本で言うと“組”みたいな感じで、そういうシステムになってハリウッドの映画づくりの基礎になります。

その点で、アリスは、『キャベツ畑の妖精』もそうですけれども、最初から自分でストーリーを考えて、それを脚本として書いて、それだけではなくて、カメラマンを使って、そして自分で衣装も作って、キャラクターも設定して、カメラマンにどうやって撮るかっていう演出の指示をした。そういう意味では、アリスの映画の作り方というのは、カメラマン・システムの頃に既にディレクター・システムのような形で先を行っていたともいえる。特に最初の頃の多くの監督たちが、自分がカメラマンとして撮ったというのと比較すると、先駆性もあった。そうしたこともあって、アリスがハリウッドの映画の作り方のパイオニアであるという言い方もされるようになったのかな、と思うんですね。

アリス・ギイ作品の特徴

いくつかの特徴があるのですが、アリスの映画を見てみますと、テーマ的には皆さん今ご覧になったのでわかるように、まず、女性の問題として括られるような、当時「第一波フェミニズム」という女性の参政権運動がありましたが、そういう時代の働く女性としてのアリスの立場が見えるテーマがよく出ていると思います。それから、時々女性映画監督の特徴を話す時に使う言葉なのですけれども、いわゆる「女・子ども」たちが活躍するっていうのも特徴の一つです。例えば『4歳のヒロイン』。ちっちゃな女の子が泥棒を捕まえようと、しっかり警察に行って良い子ちゃんみたいに褒められる、というお話があったりします。また、西部劇もアリスはたくさん作っています。アメリカのソラックス社時代の『二人の小さなレンジャー』(1912年)は、女の子二人がヒロインで、自分の父親を死なせてしまった悪い人を追いかけるという短いものですけれども、この中に二人の小さなヒロインが、小屋にいる犯人を銃で撃ち、最後は崖から犯人が飛び降りる、というシーンがあります。それを見るとグリフィスの『國民の創生』なんかをちょっと思ってしまいます。

私が言いたいのは、例えばグリフィスがクロース・アップを発明したというような神話がありますが、「誰が何を一番にしたか」という議論は、多分初期映画史の専門家意外にはあまり重要ではないと思うんですね。ただ、重要なのは、グリフィスが危機にあるヒロインを最後にヒーローが助けるというような話をたくさん作っていたときに、アリスは女性や子どもが活躍する西部劇を作っていたということです。そもそも、初期の映画というのは、著作権もないですし、誰かが大衆の興味を引くようなマテリアルを作ると、すぐ誰でも作ってしまうわけです。でも、そうやって切磋琢磨するうちに、クロース・アップであったりとか、テーマの設定であったり、編集や画面構成の考え方などにそれぞれ自分のオリジナルな発見や発想を加えていく。それがいわゆる映画形式、研究者的に言うと映画言語の発展に繋がっていったと思います。

なぜ、アリス・ギイは忘れられたのか

アリス・ギイの名前が忘れられてしまった理由は、もちろん女性監督であったということはありますが、それだけでなく、彼女が一国のアイデンティティをもった映画監督ではなかったということ。つまり、最初から最後までその国を代表するナショナル・シネマの枠内には収まらない監督だったということもあると思います。それは、一つにはアリスが女性であって、結婚や出産といったライフイベントがあって、さらに女性であったために、フランスとアメリカという二つの国の映画史のなかで、どちらの国でも映画産業が拡大していく過程で、歴史から消し去られていったのだと思います。特にアメリカでは夫婦で経営・製作していたために、また、エジソンのトラストやハリウッド以前の東海岸の映画史のなかで、生き残らなかったためにアメリカ映画史からも消えてしまう。もちろん、女性であったために職場の中でも制限があったに違いありませんが、フランスからアメリカに移って、そしてまたフランスに戻るという行き来のなかで、そもそも、フランスとアメリカは、映画史においては完全にライバルなんですね。フランスに行けばリュミエール兄弟ですし、アメリカに行けばリュミエール兄弟の名も出ない。そういう覇権争いの中で、アリス・ギイは、アリス・ギイ・ブラシェと名前を変えて、アメリカに移ればアメリカの移民についての映画や西部劇などを作りますが、ソラックス社は、結局グリフィス以前の数多くあった東海岸の映画会社の一つとして埋もれてしまい、アメリカ映画史の中でもフランス映画史の中でも置き去られてしまった。そういう一つの不幸なところがあると思うんですね。ただ、それは今の視点から見ると、逆に、彼女はトランスナショナルな映画製作をしていたと言えます。国境や一国のアイデンティティを超えた映画を作っていた。それに、彼女の映画には男性や女性が異装する映像もたくさん出てきます。彼女はアクションやコメディもたくさん作っているんですけれども、今から見ると家族ドラマですとか、映画が得意とする家庭ドラマというような、ファミリーメロドラマというような素材をたくさん作っていた、というところもすごく重要だと思います。つまり彼女はその後の女性監督の特徴もしっかりと先取りしているのです。

アリス・ギイは映画に物語を盛り込んだ

最初にメリエスとリュミエールの二人から映画史が成り立った、と言いましたけれども、実は映画には「物語」が非常に重要な要素なわけです。ただ、やはり映画というものを考えたときに、特にシネフィルと言われる人たちにとって、脚本の要素は、基本的に映画の要素ではないという主張があるのですね。それは映像ではなく、文学的な要素であるというふうに考え、映画芸術の独自性という視点から切り離されるのです。ただ、もう一度映画を成立させる要素を考えると、物語性はやはり欠かせないと思います。すると、映画のスペクタクル的な部分や演劇から引き継いだものは、メリエス。リュミエール兄弟は映画のビジュアルな要素、例えば写真や絵画。そしてアリス・ギイは、特に私たちが知っている主流の映画を作る大事な要素、つまり物語の要素、それは、文学に負っている部分ですが、当然映画独自の語りがあるわけで、それは文学とは違いますが、アリスは映像で書くことを試みていたと思うのです。映画には脚色や翻案という要素も欠かせないのですが、アリスはこの部分の先駆者としても重要だと思うのです。でも、映画芸術という概念から軽視され、そこから抜けてしまったというところもあるのかなと。

アリス・ギイの映画的な要素として、最後に一言加えておきたいことがあります。初期の映画空間というのは、メリエスのような「舞台的な要素」か、もしくは「絵画的な要素」だったのが、ポーターやイギリスのパイオニア、そしてグリフィスがショット、つまり編集でつないでいく「コンティニュイティー」という概念を発展させたと言われています。グリフィスは基本的に横なんですね、部屋から部屋へ移動する、横の移動で水平の空間の連続性なんです。だから西部劇を中心とするハリウッド映画の父と言われるのだと思いますが。でも、アリス・ギイの映画では「縦の空間」がかなり初期から見えている。これはすごく重要ではないかと思うんですね。と言うのは、例えば、2階の住人が足を叩いている時に下の住人が上を見る。映画の中で、今まであまり注目されていなかったヒッチコックが、アリス・ギイについて言及した、という指摘がありましたが、ヒッチコックを有名にした『下宿人』で印象的なのは、下宿人として来た怪しい人物が、上の部屋にいる時に足音が聞こえるというシーンがあります。そのアイディアは、ルネ・クレールとかに影響を受けたと思っていましたが、実はその前にアリスが既に発想していた。

あるいは、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』の乳母車のアイディア。映画では、『フェミニズムの結末』に影響を受けて『十月』の女性兵士のイメージになったと研究者が指摘していますが、『戦艦ポチョムキン』でもなぜ乳母車だったのかっていうのを考えてみる。アリス・ギイの映画を見ると乳母車がやたら出てくるのですね。ポチョムキンの乳母車も、すでにアリスの映画が消され始めていた時期に、乳母車の映像が予想もしないところから出てくる。そういう、アリス・ギイがさまざまな影響を与えたかもしれないという可能性をもう一度考えてみると面白いんじゃないかなと思います。駆け足になってしまったのですけれども、ありがとうございました。

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