トークイベントレポート

『映画はアリスから始まった』
古賀太さんトークイベント

2022年9月24日(土)下高井戸シネマ

『映画はアリスから始まった』は、情報量が多すぎて、出てくる人も多すぎて、ご覧になった後は少し混乱するのではないかと思います。個人的には、もう少し出てくる人を絞ってわかりやすくしたほうがドキュメンタリーとしてはいいのかなと思いますが、お聞きいただいた後で頭の中が整理されたなという印象を持っていただければいいかなと思って、お話をしたいと思います。

まず、冒頭でアリス・ギイの名が知られていない、と出てきます。確かにそんなに知られてはいません。しかし私は2009年から日本大学芸術学部で教えていますが、毎年1年生の授業で「映画芸術学」というのがございまして、必修の科目でアリス・ギイの映画を見せています。90分の授業で、2009年から毎年見せているので、少なくとも日大芸術学部映画学科の学生は全員、アリス・ギイを知っているはずです。

2008年に、フランスのゴーモンという大手映画会社の初期映画のDVDBOXが出ました。その中にアリス・ギイ作品が3時間半ほど入っていました。私は、それを学生と一緒に全部見て、90分ほどの尺に選び、ゴーモン社と交渉して原版を送ってもらいました。それを渋谷のユーロスペースで上映したのが2012年です。それが日本においてまとめてアリス・ギイ作品を上映した最初だと思います。2010年から毎年学生たちが企画して12月に渋谷のユーロスペースで開催している映画祭があり、2012年は「新・女性映画祭」という題名で上映しました。先方から送ってもらったアリス・ギイの写真を使ったチラシの表紙を、その時にすでに作っておりました(チラシを見せる)。

アリス・ギイの生涯

アリス・ギイは、1873年生まれですので、日本だと明治6年です。同じ年に生まれた人を辿ると、例えば泉鏡花などです。あるいは、小津安二郎は1903年生まれなので、アリス・ギイより30歳若いのです。ところがアリス・ギイは小津より長生きして1968年まで生きています。小津は63年に亡くなっていますけれども、アリス・ギイは94歳まで生きました。今の映画でもおわかりの通り、この世代の方にしては流転の人生です。両親はフランス人ですがチリにいて出版社や書店を経営していました。実際のアリス・ギイの父親はチリ人であったといいます。つまり、いわゆる法律上のお父さんではない人とアリスの母親は関係があったでようだとも書かれています。彼女は5人兄妹の末っ子で、両親は彼女をフランス人にするためにパリで産みます。パリ郊外で産まれ、彼女はスイスに預けられたりして最終的に両親のいるチリに行きます。父が亡くなり、母とパリに戻り、母が歳をとったので食べていかないといけない、ということで22歳で速記とタイプを学んだと映画に出てきますね。1894年にエジソンによる覗き穴式の映画が始まり、リュミエール兄弟がパリで上映したのが1895年12月28日です。アリス・ギイはその前年に、写真の会社に秘書として就職しました。そこにいた2番手のレオン・ゴーモンという人が最終的に写真の会社を買い取り、ゴーモンという映画会社にしました。たまたま秘書で入ったアリスが非常にアイデア豊富で、そのまま自然と監督になったというような次第なのです。最初から監督募集で入社したとかではなく、22歳でとにかくタイプができる人ということで雇われたのです。リュミエール兄弟は1895年3月22日にパリ市内で最初の試写をやっています。その時アリスは一緒について行ったと言います。その年の12月28日、オペラ座のそばのグラン・カフェで上映した時にも一緒に見に行ったと言っています。37人しか見てないのですが、その中にいたと語っています。おそらく本当だと思います。ただ、『映画はアリスから始まった』の中で、1896年に『キャベツ畑の妖精』を撮ったというのはどうも本人の勘違いのようです。おそらく1900年ではないかと思います。いろいろな資料をずっと見てみるとそうだと思うのですけれども、彼女が、「私は最初に物語映画を撮った」と言うには、1896年でないといけないのです。もうメリエスとかはどんどん作り始めていた時期ですが。だんだん人間というのは記憶を捏造しますから、思い込んでしまうこともあります。彼女のインタビューにはそういった部分も少しあるのかなという感じがします。

ところが監督になって9歳下のハーバート・ブラシェという人と結婚しアメリカに行ってしまうわけです。アメリカでハーバートは何度も浮気して、アリスは離婚して1922年にパリに帰ってきます。そして今度は娘さんに養ってもらいます。娘さんはユニバーサルなどの映画会社のパリ支店に最初勤めていて、英語ができるわけです。それからアメリカ大使館に勤め、ヨーロッパ各地に行き、最後はワシントンにまで行くという形で、あちこち動いています。アリスが亡くなったのはニュージャージーと言います。映画にはアリスが飛行機でアメリカに行くシーンまでありました。ですからずっと大西洋をもう何度も、十回以上往復した。そういう生涯です。本によっては1896年から22年まで500本は作った、1000本は作ったと書かれていますが、それほど多くないのではないかというのが、私がいろいろ調べた感触です。

アリス・ギイの自伝

先ほど映画の中で、彼女は伝記を56年に書いていたが、68年に亡くなった時にも出ず、76年にようやく発行された、と言っています。実は日本でもこの伝記は出版されています。2001年、この映画を配給しているパンドラという会社が『私は銀幕のアリス:映画草創期の女性監督アリス・ギイの自伝』として出版しました。今売り切れなのですが、古本では買えます。それからもうすぐ電子版として読めるようになるそうです。(2022年10月7日電子書籍版を発行)電子版でも古本でも手に入れた方がいいと思いますけれども、ここにアリス・ギイの素晴らしい文章があります。1914年、彼女が41歳の時にアメリカの「ムービーレクチャーワールド」という雑誌に書いた文章の一部で、非常に感動的です。「私が長年不思議でならないのは、活動写真の製作者という名声と富を築く絶好の機会が目の前にあるのに、多くの女性がその機会を掴もうとしないことだ。男性より女性の方が恵まれている才能を存分に発揮できる芸術。より完成度の高い作品を作ることができる芸術は、映画をおいて他にないというのに」「過去何百年もの間、男たちが独占してきた分野で女性が仕事をしようとするとき、女性であることへの頑迷な差別と偏見が今なお彼女たちの成功への道を阻んでいる。もちろんこの種の偏見は急速に消えつつあるし、既に差別が無くなって久しい職業も多い。例えば演劇や音楽、絵画、文学といった分野では女性が第一人者として活躍してきた。これらの芸術が映画に与えた影響の大きさを考えるとき、成功した映画のクリエイターとしてなお残っている女性がなぜいないのか、不思議に思えてくる。男性が映画製作に向いていると同時に女性もまた映画製作に向いている。いやむしろ多くの点で女性の方が明らかに優れている。なぜなら、より穏やかな性に属する女性の方がストーリーを創作し、場面を作り出す気質に恵まれているからだ。女性は感受性において秀でている。半世紀もの間男性が自らの素直な感性を押さえつけようとしてきた間、女性は自然にそれを開放してきた。男性によってこの世界から保護されながらも女性は何世代にもわたって感受性を豊かに育んできた」と。この文章は、この映画のパンフレットで上野千鶴子さんが半分くらい引用されていますのでぜひ、パンフレットもお求めになるといいと思います。

アリスの発想のすごさ

今回上映がある「アリス・ギイ短編集」、ここには残念ながら彼女のフランス時代の作品しかないのですが、フランス時代だけでも面白いのでぜひご覧になるといいと思います。『キャベツ畑の妖精』が1900年と1902年の2パターンあるのです。この作品は、キャベツから赤ちゃんが生まれるというだけの話です。一回目はキャベツからどんどん赤ちゃんを取り出す。これは日本人にはわかりにくいのですけど、フランスでは子どもから「赤ちゃんはどこから生まれるの?」と聞かれると「キャベツからよ」と言う習慣があります。このことがわかっていないとなかなか難しいのですけれども。もう一つの『第一級の産婆』は、私は『高級助産婦』と名付けましたが、要するに子どものいない夫婦が赤ん坊の人形を買いに行きます。ところがどうしても「これでは満足しないわ」と言っていると、奥へ通しましょう、と別室に通されます。そこはキャベツ畑です。そこからお店の人がどんどん「これいかが?」と言って、赤ん坊を渡すんです。そして「うん、これがいい」と言います。すごいのが、その時に、実は黒人の赤ん坊が出てくるんです。すると「あ~いやだ!」と言うんです。ひどいですけれども、そういうシーンもあるんです。映画が始まったばかりの頃に、赤ん坊が生まれてくるシーンを撮ります。それはもちろん童話的なキャベツ畑なのですが、そういうような発想のすごさというのがアリス・ギイにはあると思います。あるいは、『マダムの欲望』という作品がありますけれども、これは妊婦がお腹が空いてしょうがなくて、人のものをどんどん奪って食べていく話です。妊婦がお腹が空く、ということが映画のテーマになるということは今でも誰も思いません。また『べとつく女』という作品がありました。金持ちの女性がメイドさんを連れて郵便局に行き、メイドさんに切手を全部なめさせます。そして自分が貼っていきます。メイドは30枚くらい切手をなめているうちに、口がべとべとしてきます。それを見ていた男がキスをして2人の口がくっつくという話です。『フェミニズムの結果』(原題“Les Résultats du féminisme”)という原題通りの1906年の作品があります。男性が女装し、女性が外で酒を飲むという話です。最後に男性軍がそれを逆転するという話ですけれども、非常に女性ならではで、ほかの映画にはない発想があります。

他にもアメリカ時代の作品も非常に良いです。例えば“Falling leaves”、『落ち葉』という作品があります。これは、お姉さんが重病で、落ち葉が無くなる頃にはもう死んでしまうと医者が言います。そうすると妹さんは、なんとか葉が落ちないように、紐で木に葉っぱをくっつけます。そしてその願いが叶い、お姉さんは死なずに済みます。新しい薬が出るのですけれども。非常に優しいですね。こういった作品もあります。

アリスの独自性~ストーリー・テリングの才能

はっきり言ってしまうと、映画でアリス・ギイが世界初のクロース・アップを発明したと出てきますが、あれはおそらく違いますね。イギリスのほうが早いですから。正確には、ブライトン派というイギリスの一派が5、6人いますけれども、彼らがクロース・アップを発明したのです。世界で最初の物語映画というのもおそらく違うと思います。いわゆる映画の発明が1894年から95年頃です。それからしばらく普通の風景であったりする映像が作られた時代が3~4年続きます。この頃からから1915年くらいまで、初期映画と呼ばれる時代があります。英語では「アーリーシネマ」と言います。この映画でも出てきましたが、初期映画には4人の重要な会社がありました。『月世界旅行』のジョルジュ・メリエス、それから、パテ社とゴーモン社。つまりフランスには、ゴーモン社とパテ社と、たった一人でやっているメリエスがいたのです。四大監督のうち三人がフランス人です。パテ社のフェルディナン・ゼッカ、それからゴーモン社のアリス・ギイ、もう一人はアメリカ人のエジソン社のポーターです。その4人が一番重要です。アリス・ギイははっきり言うと、その初期映画の中では技術的には大したものではありません。しかし、物語の発想は、アリスが一番オリジナルだと僕は思います。アリスは、フランスに帰って映画の仕事をしたいと思ってもなかなかできず、出版社で物語を書いたとあります。僕はこの女性はたくさん物語が書けるタイプの人なのだと思います。

なぜ忘れ去られたのか

アリス・ギイはなぜ忘れ去られたのでしょうか。私は、忘れ去られたわけではないと思います。アリス・ギイは1957年に世界アーカイブ連盟に招待されています。ここには、後に日本の国立映画アーカイブも入っています。彼女は世界アーカイブ連盟(FIAF)に招待され、その年にフランスでレジオン・ドヌール勲章を授与されています。ですから、全く忘れ去られてはいないと言えます。ただ、彼女の場合はフランスにいなかったために、映画史に書かれなかったのですよね。つまり1907年から22年までアメリカに行ってしまい、フランスにはいなかった。その時点でだんだん映画史は書き始められるわけです。アメリカにずっといたらアメリカの映画史家が書いたと思いますが、アメリカにも途中からやってきて、去ってゆきました。フランスにもアメリカにも定住してなかったということがとても大きいと思います。『月世界旅行』のジョルジュ・メリエスでさえも1910年くらいから15年間も忘れ去られていたのです。モンパルナス駅でおもちゃ屋さんをやっているところに、あるジャーナルが「ひょっとしてメリエスさんじゃないですか?」と言うと、「いかにも」と言って、ようやく復権し、彼もしばらくしてレジオン・ドヌール勲章を受章しています。ですから、アリス・ギイも忘れ去られたわけではない。けれども、その後に映画史を書いたジャン・ミトリやジョルジュ・サドゥール、シャルル・フォールなどの映画史家が全員男でした。その人たちがゴーモンだとヴィクトラン・ジャッセやルイ・フイヤードなど、長年フランスで活躍した映画人たちから話を聞いて映画史を書いてしまって、彼女が帰ってきたときは遅かったということがあります。現在は、ゴーモン社がBOXを2008年に出した時点で、あるいはフランスや日本でこのような自伝が出版されている時点で、彼女が忘れ去られたわけではない、という気がします。

22年間撮り続けたアリス・ギイ

私がすごいと思ったのが、1900年から22年間、映画を撮り続けた人は一人もいないということです。もともとリュミエール兄弟とエジソンは自分では作りません。リュミエール兄弟は最初の50本くらいは自分で作っていますが、エジソンは一本も撮っていません。エジソンは全部人にやらせたのです。彼らは最初の発明者の時代で、その後に出てきた人はみんな1910年代に終わってしまいます。後に出てきたフイヤードなども含めて、どんどん映画がスピーディーになっていき、映画のスタイルが合わなくなっていきます。ところが、アリス・ギイはこの頃に22年間も活動を続けた。そのような人は他にいない。もし、あのまま年下の旦那さんと、(旦那さんは映画監督になりたかったみたいですけれど。すごいことに何度も名前が出てきましたが、ロイス・ウェバーというアメリカで最初の女性監督、これは旦那さんの愛人です)。彼女がもしもっと仲良くしてアメリカにいたら、本当にアメリカの大監督になっていたかもしれないと僕は思います。22年でフランスに帰ってしまったのは惜しかったと思います。ここまで乗り切れたのだから、トーキーまでいけたのではないかという気さえします。先程申し上げましたが、大体映画史の中では1900年から1915年くらいまでが「初期映画」、それから今度は「古典的ハリウッド映画」と呼ばれる時代に変わります。それはある意味では今でも続いています。つまり、主人公がいて、みんなドキドキしながら最後にその人が結婚できるか、その人が成功できるかなど主人公を追いかけてドキドキするような映画。今私たちが観る映画もほとんどそうですよね。そういうものが1915年頃からD・W・グリフィスという「アメリカ映画の父」といわれる人を中心に始まりました。アリスはその時代を乗り切った訳ですから。

「監督」というクレジットがない時代

それからもう一つ、当時は「監督」という概念がなかったのです。「監督」という概念を打ち出したのはそれこそグリフィスなのです。彼の『国民の創生』(1915年)で冒頭に「監督 D・W・グリフィス」と出てきます。アリス・ギイの映画をご覧になってもアリス・ギイの名前は全く出てきません。これは「ゴーモンの映画」だったのです。ですから、ある意味アリスが監督したという証拠がないのです。『キリストの生涯』、これは素晴らしい作品ですが、これにも名前がないのです。少なくとも、監督の名前を入れる習慣が1910年頃までは全くなくて、1915年くらいから広まり始めます。ですから彼女は製作主任のような形でいて、おそらく1902年くらいから07年くらいまでは完全にゴーモン社の製作部門のトップでした。誰が監督で誰がカメラかなどはよく分からないのです。みんなでやっていた、ということです。ただ、製作部門で彼女が統括していたというのは間違いないのではないかと思います。

アリスと娘の映像

今回の『映画はアリスから始まった』で私が面白かったのは、娘さんの映像です。今までアリス・ギイに関する映画は10本ほど作られています。その中で今までなかったなと思ったのは、娘さんの映像があんなにあるということです。特によかったのが最後、あれはおそらく娘さんあるいは誰かにに頼んで撮ったアメリカ時代の8ミリのカラー映像があります。アリスと娘さんが仲よさそうに歩いていました。あれを見て私はすごく嬉しかったです。これは今まで観たことがありませんでした。パメラ・グリーンという本作の監督が頑張ったということがよくわかります。グリーン監督は、製作に8年間かけて、電話まで全部録音して、あれだけ有名な人もたくさん出てきますが誰が誰だかわからない程で、マーティン・スコセッシも出ているのが分からないくらいでした。けれど娘さんと楽しそうに二人で歩いている映像は、これは今回の発見だというような気がします。

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