本作のメインキャラクター田中美津さんが
8月7日に逝去されました
心よりご冥福をお祈り申し上げます
(記:2024年8月8日)
聴覚障がい者用日本語字幕版/
視覚障がい者用音声ガイド版完成/英語字幕付きも有
(上映素材はBDとDVD)!
ぜひ、お使いください(2020年4月)
予告編
解説
ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』は、1970年代初頭、日本におけるウーマン・リブ運動を強力に牽引した田中美津を、4年間に渡り追ったドキュメンタリー映画である。
当時、「女らしく生きるより、私を生きたい」という田中美津の思いに多くの女たちが共感し、ウーマン・リブ運動が日本各地に沸き起こった。「モテない女のひがみ」と嘲笑してくる男マスコミに、「女の生き難さの中にリブが息づいているだけだ!」と、1歩も引かなかった女たち。
ウーマン・リブは、田中にとって1対多数の世界だった。カリスマとは、そういうもの。今は、鍼灸師として患者と1対1で向き合う。「私の中にその人の居場所があるし、その人の中にも私の居場所がある」。「心・技・体」は間違い、「体・心・技」で幸せになろう、絶対になれるよと、田中は患者に語りかける。田中美津は、死ぬまで田中美津である。
ことばを信じない彼女のことば・・・は、なぜか古くならない
自分にとって切実な事柄にこだわっていく中で、世界とつながっていきたいと田中は願った。それゆえ「女であること」の痛みは、ウーマン・リブの田中を生んだ。「虚弱であること」のせつなさが、一心の治療を36年間続けている鍼灸師・田中を誕生させ、自らツアーを率いて辺野古に足しげく通うのも、沖縄の苦しみに対し長年見て見ぬふりだった自分への、恥ずかしさを伴う決意ゆえだ。本作はそんな田中に密着した4年間余りの日々を通じて、その心の遍歴を追った。
(上映時間90分)
コメント
- 上野千鶴子(社会学者/東京大学名誉教授)
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日本のリブが、輸入品でも借り物でもない、田中美津という肉声を持ったことは、歴史の幸運だったと思う。
闘うのは、勇気があるからではない。いても立ってもいられないからだ。一生懸命だからだ。懸命に生きて、懸命に老いれば、こんなに自由でいられることを、田中美津はいながらにして示してくれる。
- 山口真矢子(朝日新聞社 総合プロデュース室)
-
理屈抜きで生きづらさを抱えるすべての人に見てほしい!
美津さんの波乱万丈な生きざまと魂の言葉がすごすぎて涙が出っぱなし。自身の痛みや生きづらさを引き受け、社会を変えるエネルギーに昇華させた、ひとりの女のまだ終わらない人生物語。ひたすら自由と自分らしさを求め続ける旅人の物語。
終了後に美津さんと束の間だったけれど、深いお話ができた。映像のままの自然体から発される美津さんの肉声は、一言一言が私の心のツボにぐいぐい刺さった。
理屈を超えた圧倒的な、でもふわっと軽やかな存在感。
- 集英社「MyAge」2019秋冬号より
-
女性解放のカリスマではなく 素顔の田中美津を追いかけて
鍼灸師として全身全霊で患者に向き合う。沖縄の苦しみを我がことに感じ、辺野古で地元の人とともに座り込む。息子の行末を案じ、愛猫にそっと愚痴る母の顔…。吉峯さんが映し出す美津さんの今は、どこか不器用で切なくて、どこまでも自由でしなやかで、なんだかとても力づけられます。
- 山口智也(NHK「ETV特集」ディレクター)
-
女性だけでなく、心が凝っている全ての人に見てほしい映画だ。
田中美津という、時代のカリスマとして一時代を築き、駆け抜けた人が、自分の人生を語る。
その言葉を聞き、彼女の心の履歴を監督と共にたどるうちに、ウーマンリブは、ヒューマンリブだったと気づくのだ。
自由を求め、のびのびと生きられる社会を作るために声をあげることは、人間にとって実に自然なことなのだと気づくのだ。
あなたもきっと思うはず。美津さんがいるこの星は捨てたもんじゃない、明日も生きていこう!と。
- 中村弓子(仏文学者/お茶の水女子大学名誉教授)
-
田中美津さんの原点は、幼児の時に被ったセクハラにある。あっけらかんと「楽しかった」とさえ感じていた幼児に、親を始め大人たちは、それをなかったことにした。その結果、一人の人間として、世界の中に、自分の居場所を失くしてしまった。それが、この映画の題でもある『この星は、私の星じゃない』の意味である。
やがて自分の周囲の疎外的な世界に、まず、女性としての尊厳を求めるリブ運動を通じて風穴を開けることを始めた。そして、それは、女性に限らず疎外されて生きている全ての人と、少しでもより良く呼吸の出来る世界を求めての運動へと必然的に展開していった。
特に、現在の日本は、誰にとっても胸いっぱいに良い空気を吸いにくい環境にある。出口で本を前に座っていた美津さんに、「しっかり生きていきましょう!」と握手すると、美津さんは満面の笑みを浮かべて握手を返してくれた。
- 藤田保(言語学者/上智大学教授)
-
彼女の語ることばの中で特に印象的だったのが、「『平等』の定義とは一人ひとりが自分を大切にできるということ」というもの。そして、その延長線上にある「女性の解放は大切だけど、何よりも大切なのは自分を解放すること」という考え。
大上段に構えて社会がどうかを語ったり、他人を憐れんだりする前に、何より自分自身を大切にすることを一人ひとりが実践できれば、きっと周りの人々に対しても優しくできて、誰もが暮らしやすい世の中になるはず。
他人を変えることは難しくても自分を変えることはできるかも知れない。それをするかしないかは自分次第だ。
性別や国籍、人種などを超えて、多様性が求められるいまだからこそ、田中美津という人物の声に耳を傾けることの重要性を改めて感じる。
- 岬多可子(詩人)
-
スクリーンに映し出され語る田中さんは、強く凛々しく生命にまっすぐに対峙する女性。けれど同時に、か弱く繊細で、自分の傷にも他者の傷にも同じように痛んで、しかもずっとその痛みを忘れずにいる、そんな女性でもある。
桜や沖縄の海の美しい映像が、感情を揺らすようにたいへん印象的だが、その美しさは切なさと表裏を成し、痛ましさにも通じる。
ウーマンリブから始まり、現在は沖縄の苦しみに向き合い辺野古に通う。若い機動隊員たちに向けて、切々と語る姿には鳥肌が立った。ロボットのように無表情のまま、田中さんやカメラに対して視線さえ合わせぬ彼らが、なにを考えてその業務についているのか、夜、仕事を終えた後の彼らの心にひとしずくでも感情の露は生まれるのか。
- TVディレクター(40歳代女性)
-
自分に正直に生きることが、いかに難しくまたいかに幸せなのか、映画を見てからずっと考えています。田中美津さんが小さい身体で戦っている姿が、痛ましくあり、勇ましくもあり、自分に正直に生きるための闘いに心をつかまれました。
その中でも「誰かのためにがんばる、差別のためにがんばるんじゃない。私のためにがんばることが世の中全体を変えていくことにつながる」という言葉が、私のこれからの指針になりそうです。
- 山根純佳(社会学者/実践女子大学准教授)
-
誰かの言葉でつくられた正義ではなく
自分の’大したことなさ’に向き合いながら、
今ここで生きている私が 感じ考え言葉にする
ウーマンリブも沖縄の基地問題も一貫して、
"自分ごと“のたたかいみんなにもそう生きてほしい
って美津さんは訴えてる自分が今生きている人生ですべきことを引き受けなさいと。
美津さんいわく、
平等ってどういうことかよくわからないけど、
私の言葉で考えてみると、
みんな自分自身が一番大切で,一生懸命生きている
だから一番大事なその人をみんなが大事にする、
尊重することなのかしらって。素敵な言葉ですね.
- 白石和己(ライター/童話作家)
-
達者な編集や、きれいな解釈で整えるのではなく、
ありのままを受けとめるスタンス。
時間をとる。匂いをとる。空気をとる。
つくり手の思いは、押し付けられることなく、
選んだ場面やカメラのアングル、音に託されていく。この映画の中で、美津さんは、
女性だけではなく、男性の生きにくさにも触れ、寄り添う。
強く堅固な発信者だけではなく、
柔らかな受信体としての美津さんも映し出される。
- 経営コンサルタント(50歳代男性)
-
ウーマン・リブは現代の人からはあまり身近に感じられないテーマだと思うのですが、現代では当たり前とされている様々なことがらもその時代の方々のご苦労のおかげで実現していることも多々あると思います。
でも、この映画で描かれているのはウーマン・リブのことでもフェミニズムのことでもないんです。
まず、女性特有のことではなく、男性も含めて人間が抱える何らかの病んだ傷に目を向けていること。
個人の素朴な心で感じられる、それらの「病んだ傷」に対する向き合いかたのこと。
世の中で「病んだ傷」に苦しむ人たちの位置づけかたのこと。
これらの視点は、ウーマン・リブ運動当時から50年経った現代でもなお通用しますね。
登場人物
- 田中美津
- 米津知子
- 小泉らもん
- 古堅 苗
- 上野千鶴子
- 伊藤比呂美
- 三澤典丈
- 安藤恭子
- 徳永理華
- 垣花譲二
- ぐるーぷ「この子、は沖縄だ」の皆さん
スタッフ
監督 撮影 編集 朗読 | 吉峯美和 |
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プロデューサー | 中野理惠 吉峯美和 |
撮影 | 南幸男 小口久代 |
録音 | 宮武亜伊 河合正樹 |
整音 音響効果 | 朝倉三希子 |
テーマ曲 | 「新 パワフル ウィメンズ ブルース」 作詞 田中美津 曲・演奏 RIQUO レコーディング studio NOTA |
スタジオ編集 | 西村康弘 (NEO P&T) |
ミキサー | 富永憲一 (NEO P&T) |
上映情報
鹿児島 |
ガーデンズシネマ |
2024年12月8日(日) 12:30~1回のみ上映 上映終了後、吉峯美和監督によるトークを予定! |
TEL: 099-222-8746 |
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東京 | シネマネコ | 上映終了 2024年11月1日(金)~14日(木) 11月3日(日)上映終了後、吉峯美和監督によるトークを予定! |
TEL:0428-28-0051 |
東京 | アップリンク吉祥寺 | 上映終了 10月25日(金)~【再上映】 10月27日(日)上映終了後、吉峯美和監督によるトークを予定! 10月25日(金)~11月6日[再上映} |
TEL:0422-66-5042 |
京都 | アップリンク京都 | 上映終了 2024年10月25日(金)~ 10月27日(日)上映終了後、小川たまかさん(ライター/フェミニスト)によるトークを予定! |
TEL:075-600-7890 |
沖縄 |
よしもと南の島パニパニシネマ |
上映終了 2024/10/22(火) 19:00~1回のみ上映 上映終了後、吉峯美和監督によるトークを予定! |
TEL: 0980-75-3215 |
東京 | 渋谷ユーロスペース | 上映終了 2024年9月28日(土)、29日(日) ※いずれも10時30分上映開始予定 9月28日(土)上映終了後、浜田敬子さん 9月29日(日)上映終了後、北原みのりさん |
TEL:03-3461-0211 |
東京 | アップリンク吉祥寺 | 上映終了 2024年9月9日(月)、13日(金)、17日(火)、19日(木)、26日(木) いずれも13時30分上映開始予定 9月13日(金)上映終了後、本作の吉峯美和監督によるトークあり。 9月17日(火)上映終了後、上野千鶴子さん(NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長)によるトークあり 9月26日(木)上映終了後 本作の吉峯美和監督によるトークあり |
TEL:0422-66-5042 |
東京 | 文京区男女平等センター 研修室 | 上映終了 2023年6月3日(土) 上映終了後、田中美津さんによるトークあり! 開場:13時30分 開映:14時 上映素材は日本語字幕付きです。 |
TEL:03-3814-6159 |
東京 | シネマ・チュプキ・タバタ | 上映終了 2023年4月1日(土)~15日(土) 連日17時10分~(水曜休) ※4月8日(土)上映終了後、吉峯美和監督によるトークイベントを予定 ※上映素材は<日本語字幕付き、音声ガイドあり>を使用します。 |
TEL:03-6240-8480 |
東京 | アップリンク吉祥寺 | 上映終了 2020年11月20日(金)~11月26日(木) |
TEL: 0422-66-5042 |
東京 | 渋谷ユーロスペース 〒150-0044 渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 3F |
上映終了 2019年 10月26日(土)〜 ※1週目と2週目(10月26日~11月8日)は |
TEL: 03-3461-0211 |
愛知 |
あいち国際女性映画祭2019 (9月4日~8日) |
上映終了 上映終了後に吉峯美和監督と田中美津さんによるトークショーがあります。 |
TEL: 052-962-2520 |
愛知 | 名古屋シネマスコーレ | 上映終了 2019年11月16日(土)~11月22日(金) |
TEL: 052-452-6036 |
神奈川 | 横浜シネマリン | 上映終了 2019年11月23日(土)~12月13日(金) |
TEL: 045-341-3180 |
新潟 |
上越教育大学 |
2021年11月20日 13:00~ 会場:上越教育大学 講義棟302教室 参加費:無料 上越市教育委員会による「学び愛フェスタ」イベントの一環としての上映です。 |
|
長野 |
松本シネマセレクト |
上映終了 3月29日(日)13時30分~ 会場:松本市Mウィング トークゲスト:田中美津さん |
TEL: 0263-98-4928 |
大阪 |
大阪 シネ・ヌーヴォ |
上映終了 1月18日(土)〜2月7日(金) 1月18日(土)は田中美津さんによるトークを予定 |
TEL: 06-6582-1416 |
兵庫 |
元町映画館 |
上映終了 1/18(土)-1/24(金) 10:00〜 1月18日(土)は田中美津さんによるトークを予定 |
TEL: 078-366-2636 |
京都 |
京都みなみ会館 |
上映終了 2020年1月24日(金)~ 1月24日(金)11:35〜の上映後に吉峯監督のトークを予定 |
TEL: 075-661-3993 |
鹿児島 |
ガーデンズシネマ |
上映終了 2020年1月25日(土)~31(金) 1月25日(土)、26日(日)12:30〜の上映後に吉峯監督のトークを予定。 |
TEL: 099-222-8746 |
沖縄 |
桜坂劇場 |
上映終了 2020年7月18日(土)~7月24日(金) 料金/会員料金:1000円(月曜800円)/大人1700円/シニア(60歳以上)1200円 その他各種割引あり |
TEL: 098-860-9555 |
イベントニュース
2024年10月27日(日)
小川たまかさん(ライター/フェミニスト)
トークイベントレポート
会場:アップリンク京都
2024年11月05日
私は性暴力やハラスメントの取材をするライターで、実はこのトークは当初25日(金)に、と打診されていたのですが、沖縄で米兵事件の裁判を取材する予定が入っていたので、本日(27日)に変更していただきました。ところが25日、大阪で裁判(元地検トップの性犯罪)が行われたので結局大阪にいました。25日に沖縄に行っていたら、今日沖縄の話もするつもりだったのですが。どうしてこんな話をするかというと、私は裁判やデモの現場にいると、田中美津さんを感じるんです。美津さんは不思議な人で、とっつきやすい人ではなかったと思いますが、フェミニストたちが皆「私が一番美津さんをわかってる」と思いたくなる人でした。私が美津さんにシンパシーを感じるのは、美津さんに「現場感」があるところです。
美津さんとのエピソード
コロナ禍、立教大学でフェミニズムのオンラインイベントがあり、そこに上野千鶴子さん、田中美津さん、酒井順子さん、佐藤文香さん、私が出ました。ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)によるレガシー活動10周年の記念イベントでした。そこで皆がそれぞれ話したあとで、美津さんは「今日はお祝いなので歌います」と言って歌ったんです。お客さんが目の前にいるイベントならまだわかるけど、各自自宅から参加しているオンラインイベントで歌うなんて、すごい人だなと思いました。オンラインで、ひとりで歌えますか?イベントが終わったあと、アンケートにはみんな「美津さんが歌った」「美津さんの歌がすごかった」「役者が違う」など書いてあって、美津さんが全部持って行きました。みんな色々話したのに~~(笑)。
本作が捉えた美津さん
少女が倒れている写真(「この子、は沖縄だ。」)のビラを美津さんが沖縄に持って行って、沖縄の方に怒られる場面がありましたね。自分の意見は言うけれど、「じゃあ謝ってきてください」と言われて「はい」と謝りに行く美津さんが好きだし、この場面を撮っている吉峯監督もいいなと思いました。
それから、ご自宅で息子のらもんさんに「朝夕逆転生活は鬱になる」などと言っている時に、目の前には猫ちゃんがいて、猫ちゃんが返事しているように見えるシーンがありますね。美津さんは真面目なんだけど、なんだかとぼけたふうに見えて好きです。
また、久高島で座り込んだ美津さんが、ユタさんに話しかけられながらぐーっと頭を下げていく場面で、私は美津さんがここで深く考え込んで悟りを開いたのかと思い、「すごい場面だな!」と思って、以前東京で開催したアフタートークで吉峯監督に尋ねたところ、「美津さん疲れて寝ちゃって……」と仰っていました。これも印象深いエピソードです。
2024年9月29日(日)
北原みのりさん(ラブピースクラブ代表・作家)
トークイベント レポート
会場:渋谷ユーロスペース
聞き手:吉峯美和監督
2024年10月24日
北原みのりさん(以下、北原さん):私は美津さんと個人的なお付き合いだったので、これ(ご持参したスカーフをお見せになって)、私が40歳になった時に美津さんがくれたんですよ、「あなたの」って言って。「素敵だったから買ったの」ってくださったんです。美津さんの面白いところは、どれだけセンスいいかっていうことを、ものすごく威張って言って、「ありがとうございます、ありがとうございます」ってお礼を言わせて。で、その1週間後に、「あのスカーフをつけていきたい所があるから貸して」って言ってきたのね。なんて人なんだ!おかしすぎるでしょ!
吉峯美和監督(以下、吉峯監督):面白い。美津さんらしいですね(笑)。
北原さん:1970年、ビラを配って立ち上がり始めるその前に、美津さんは「ベ平連」(注1)の運動をされていました。美津さんがウーマン・リブに入った70年に私は生まれているので、勿論、美津さんの活動は知りませんし、リアルタイムで見たことはありませんでしたが、1985年に「男女雇用機会均等法」が国会を通った時、「あっ、女の人って差別されているんだ、まだ。っていうか今もフツーに働けない状況を生きていたんだ」って思った時、たくさん女性の本を読むようになりました。その時読んだのが青木やよひ(注2)さんとか、松井やより(注3)さん。その後、上野千鶴子さん(注4)や小倉千加子さん(注5)が出てこられて。上野さんを通して田中美津さんを知って、ウーマン・リブを知ったんです。当時は大学生でしたが、めちゃくちゃ衝撃を受けました。大学の文化祭の時に「“抱かれる女”から“抱く女”に」って、リブの名文があるじゃないですか。それを使っていろんなイベントしたこともあります。
美津さんと一緒に仕事をしたのが多分、30歳くらいの時だったと思います。ある雑誌の編集部に美津さんと上野千鶴子さんの対談の司会というかまとめ役を頼まれたんです。なんて恐ろしい体験なんだ、今思うと本当に。怖かったですよ!「蛇とマングースってこういうことを言うんだ」って思いました。美津さんと上野さん、お二人とも一言一言が強い。相手をねじ伏せる力があるというか。「対話しましょう」とか言っているけど、「本当はする気ないだろう」って思うぐらい。今から思うと面白いですけども、当時小泉政権だったので、美津さんと上野さんが互いに「あんた小泉みたい」「あなたこそ小泉」って。妙な人気、カリスマ性があって、何かわからないけど引きずられるという魅力が美津さんにはありました。上野さんにもそれぐらい力があって、お互いを「小泉だ」って批判し合っている。
その頃、丁度上野さんが「おひとりさまの老後」(注6)を出されたばかりで、すごい「ブレイク」というか、これまでフェミニズムの中だけで知られていた上野さんが全国区で知られる人になった時に、美津さんが、「あの本どう思う?つまんないわよね?」って言うんですよ。美津さんはとにかくすごく悪口の多い人なんですよ(笑)。美津さんはずっとその話をしていて、上野さんと3人でご飯を食べるという時に、「私今日は本当のことを言うから」って。それで本当に「あの本、とてもつまらなかった」と言ったんですね、ご本人の目の前で。場が凍りますよね(笑)。で、上野さんは「私はそうは思わない。すごくいい仕事をした」などということを真顔で返されて。その時美津さんが私をテーブルの下でこうやって「あんたもなんか言いなさいよ」ってけしかけるんです。(笑)
吉峯監督:恐ろしい(笑)。
北原さん:美津さんといるとハラハラするんですよ。本作の沖縄のシーンでも、大阪から来た自衛隊の若い警官に「あなたの仕事は恥ずかしいことです」って言う。そこに正直さも見るけれど、ちょっとした暴力性もあるなと私は思うんです。でも、そこの場にいるあなたに話すんだ、っていうのが美津さんの常の姿勢だったんだなと思います。
私が美津さんに夢中になったのはやっぱりウーマン・リブです。ウーマン・リブの、あの時の勢いとか熱、悔しさというものを体験したいというか。「女」という言葉が侮蔑語だった時代に、「私は女だ」って言い始めた。美津さんはあの世代のちょっと上の、お姉さんとして生きてこられましたから、「女」って言葉をフツー言葉にしたのは、美津さんたちが最初でした。これが美津さんたちウーマン・リブ世代の方たちの一番の功績なんじゃないかと思います。それまで「ご婦人の運動」だったのを「女の運動」にした。一方で、美津さんはすごく疲れてメキシコに行かれて。ウーマン・リブのあの熱狂はなんだったのかな、とも思います。
私自身は26歳で会社を始めました。「フェミニズム」が大学で勉強する学問ではなかった当時、「ジェンダー」という言葉も一般に知られていませんでした。26歳で仕事をして本を書くようになって、フェミニストの友達がたくさんできました。「こんなに話のわかる人たちが一杯いるんだ」って思いましたね。昔の美津さんのビデオを見たりとか、美津さんたちの本の勉強会をしたりして。言葉がわかる人たち同士だけ集まる時の熱狂的な楽しさもある一方、すごく閉鎖的で「自分達が絶対正しい」とか、だんだん世界が狭まってくる時の窮屈感のようなものとか、そういうのも感じるようになりました。「美津さんがあの時逃げ出したのはなんだったのかな」、そういうことも思い、上野さんとのあの対談の後に、美津さんに個人的に会うようになって、インタビューもお願いしました。
吉峯監督:私は最初は、NHKの番組だったんですけど。美津さんはまあ、「そんな昔話している暇、今ないわよ」って。ちょうど沖縄の運動を始めたばかりでインタビューを断られました。戦後70年の女性解放の歴史を辿るという番組だったので、ウーマン・リブを外す選択肢はないなって思って。そしてウーマン・リブで田中美津を抜かすのはないな、と。4回くらい会いに行って口説きました。
北原さん:そう、昔話を嫌いましたよね。私もやっぱり同じように断られて、しょうがないから美津さんの患者になったんです。美津さんのそばでウーマン・リブに関わった人たちで「田中美津に傷付けられた」って人がすごく多くて(笑)。わかりますよね、あの強さで、しかも美津さんより若い子達だったわけだから。あの強さでみんなが夢中になって、しかも共同生活ですよ。
吉峯監督:パンツの貸し借りもしていたって。
北原さん:「あさま山荘事件」(注7)のようなことが起きて皆が疲れていく。何かに向かって走り抜けて行こうとする時代の中で、1972年のあの事件でドンとスピードが落ちる。あの時のあの重さを凝縮した2年間ってなんだったのかなって今思います。
もう、美津さんの鍼が痛いんですよ。辛淑玉(注8)さんと一緒に通っていたんです、毎週一回水曜日の夜。夜の遅い時間に行って、3時間ぐらい打ってくださるんです。美津さんってサディスティックですよね。私と辛さんは「ぎゃー!」って叫ぶんですよ。叫ぶのに、美津さんは誰かの悪口言いながら打つんですよ。「北原さんは資産管理とかどうされてるの?」とか。こっちは「え、あの、通帳に普通口座で」とか言うと、「聞いて損した」みたいなことを言われて(笑)。でも、叫びながら「榎美沙子(注9)ってどういう人だったんですか?」とか質問したりしていました。最終的に2~3時間のインタビューを受けていただき、でもう一回インタビューさせていただいて、その後ちゃんとテープ回すインタビューさせていただきました。まだちゃんと何も書いてないんですが。10年以上前かな、「リブ新宿センター」(注10)の話を聞いたのは。あそこでどんな生活してきたんですか?と米津知子さんや他のメンバーに伺うと、「猫の餌やりまで主体性の問題に還元されて辛かった」、というような話は出てきましたね(笑)。
あの当時、美津さんは永田洋子(注11)に会っているんですね。そして、「自分は山にのぼっていたかもしれない」と彼女との接点を見出す。自分が山に行かなかったのは、「毎日おから食べるのが嫌だ」っていうのと、「私はミニスカートを履いていたから」「ミーハーだから」って仰るんですね。
映画の最後に「かけがえのない、大したことのない私」という言葉を持ってこられたのはグッときました。あれが美津さん、っていうか。軽やかにいける。その感覚が自分にあるから、ものすごい暴力性のところで一歩踏みとどまれた。山に行かなかった自分を美津さんはずっと生きてこられた。何が一番美津さんにあったのかというと、「私は私」っていう、あの絶対的な「個」ですよね。他の人からすると、美津さんのあの言葉の強さや、年齢がちょっと上だったりとかで、支配関係ができてしまった。大家族、だけど全然対等じゃない集団生活の暴力性もあった。そこでやっぱり美津さんも逃げたのは、なんなんだろうな。
あの時代、ゲバ棒持って警官殺したとか、いろんな話がでてくる闘いの時代ですよね。闘争にリブセンのメンバーが行った時に、警官が三人殺された事件が起きたのよね、と。でも「そんなところに何で行ったのか」って言うと答えられない。皆行ってしまう。何でそんなことになったのかわからない。「確信犯じゃないところが自分は嫌なんだ」と、美津さんは苛立ちながら話されてました。「何となくやってしまうから青ざめる。すぐに被害者になりたがる。対等な関係で何かやるかなんてできない。私が深刻になればなるほど、メンバーとの関係が難しくなっていった」。こうお話しされていて。それってすごく今の運動にもつながるというか。社会を変えたいって思う時、自分の正義をどういうふうに表現していくかとか、誰とどういうふうに闘うのか、ということに、常に私もぶつかり続けています。結局、最後の「自分」っていうところ。「大したことないけども軽やかに生きなきゃいけない、自分の言葉を持たなきゃいけない」。これは美津さんに教えられたなと思います。
吉峯監督:ウーマン・リブ時代、田中さんが20代の頃の姿を、映像で見たことあるんですけど、火の玉みたいな感じで。
北原さん:火の玉ですよね。なんか肩が怒ってますよね、ずっと。
吉峯監督:小さいのに、ものすごいカリスマ性があって、あんな人が近くにいたら大変だったと思いますね。
北原さん:榎美沙子さんってよく、美津さんと対照的に語られるんですけども、あれだけ社会を動かしていた方の名前が、全然出てこなくなった。中絶、ピルを推奨された方ですけども。美津さんもそうですが、ものすごく「ナチュラル」であるとか、「自然」であることを重視し、ピルを否定したっていうところは、世界と比べて珍しい方向に日本のウーマン・リブは進んでいったと思います。榎美沙子さんの言葉が今の時代の私たちに殆ど伝わってないって、何なのかな。
「田中美津」さんって、ペンネームですよね。「美津」って自分でつけた名前ですよ。「みっちゃん」「みっちゃん」って自分のことおっしゃっていた。自分でつけた名前を自分で言うまでに愛していた。あのちっちゃな女の子を自分で育て続けて。沖縄に行った時に、自分は頑張って生きたって泣かれていた。私はこの映画で初めて美津さん泣くのを見ました。あの涙って何だったのかな。まだ聞けてなかったこともあったなって、映画を見て思いました。
美津さんに本当に感謝していることがあります。10年前、私が「わいせつ物陳列罪」で不当逮捕されて、やっぱり人生が終わるような思いをしたんですけど、その時「闘わない」って決めたんです。私が起こした事件ではなくて、巻き込まれたような事件だったので。私に闘いを期待する人はたくさんいらっしゃって「なんで闘わないんですか、がっかりだ」と散々言われました。その時に美津さんに相談の電話をしたんです。「闘いたくないし、闘う必要のない事件だと思ってる」って。その時美津さんだけでした、はっきり言ってくれたのは。「堂々としてなさい」「あなたが思ったことはそれでいいんだから」と。私が正解だって言ってるわけじゃないんですよ。ただ「堂々としてればいいんだ」って。そういうふうに言ってくれた時に、どれだけ救われたか。私にとって美津さんって、普段はあんまり一緒にいたくないんだけども(笑)、何かあると急に電話をする相手でした。
映画にも登場する「この子、は沖縄だ」の写真ですが、あれは「どれだけの痛みを」「見るだけで辛いのに」って美津さんに言いに来た沖縄の方に、美津さんはちゃんと闘いながら、最後に「ごめんなさいね」って、謝りに行くじゃないですか。あれですよね、あの軽やかさをやっぱり私たちは、忘れちゃいけないな、って思いました。これまで美津さんのことを書いてこなかったんですけど、たくさん言葉を聴いたので、それを私も残せるように、美津さんや美津さんたちの世代の方たちのことを、書いていけたらなと今日改めて思いました。
編集部注
- (注1)べ兵連
- 日本のベトナム戦争反戦及び反米団体。米軍の北爆開始を受け、鶴見俊輔、高畠通敏、小田実らにより1965年4月24日に結成。運動団体としての規約や会員名簿はなく、何らかの形で運動に参加した人々や団体を「ベ平連」と呼んだ。
- (注2)青木やよひ(アオキ・やよひ)
- 1927~2009年 性、身体、ジェンダーなどの比較文明論的研究や、エコロジーとフェミニズムの関連の重要性、ベートーベン研究など。
- (注3)松井やより(マツイ・やより)
- 1934年~2002年 「朝日新聞」記者
- (注4)上野千鶴子(ウエノ・チズコ)
- 社会学者 〈ウィメンズ・アクション・ネットワーク〉(略称WAN)理事長
- (注5)小倉千加子(オグラ・チカコ)
- 心理学者
- (注6)「おひとりさまの老後」
- (2007年/文芸春秋社刊)
- (注7)あさま山荘事件
- 1972年2月19日から2月28日にかけて、軽井沢にある河合楽器の保養所〈あさま山荘〉に連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件を指す。(拠:Wikipedia)
- (注8)辛淑玉(シン・スゴ)
- 韓国人の人材育成コンサルタント 政治活動家
- (注9)榎美沙子(エノキ・ミサコ)
- 薬剤師 <中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合>(略称:中ピ連)代表
- (注10)リブ新宿センター
- 1972年9月、「ぐるーぷ闘うおんな」のリーダーとして、田中さんが東京代々木のマンション内にウーマン・リブ運動の一拠点として設立した。
- (注11)永田洋子(ナガタ・ヒロコ)
- 1945年~2011年。新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副会長を務めた。複数のリンチ・殺人により死刑が確定していたが、執行前に脳腫瘍の為東京拘置所で獄死した。(拠:Wikipedia)
2024年9月28日(土)
浜田敬子さん(ジャーナリスト)
トークイベント レポート
会場:渋谷ユーロスペース
聞き手:吉峯美和監督
2024年10月15日
浜田敬子さん(以下、浜田さん):実は、田中美津さんたちの世代の取材を避けてきたというか・・・。私は男女雇用機会均等法ができて三年目に新聞社に入りました。今では当然変わっていますが、当時は長時間労働が当たり前の職場で、取材先などからハラスメントを受けることもしばしばでした。でも「これに耐えないとこの仕事は続けられない」と思い、嫌だと思いや違和感を口に出さず、その代わりに過剰に職場や組織に適応していきました。当時「総合職」として企業に就職した女性たちの多くはそうやって働き続けていたと思います。しかし、均等法世代の私たちに対して、フェミニストの先輩たちからは非常に厳しい声が聞こえてきました。均等法自体が「テーラーメイド」、つまり「男性仕立て」の女性たちを生み出すものだと批判されていましたが、それが自分たちが批判されていると感じてしまったんです。女性としてマイノリティの悔しさを職場で感じているのに、それを声に出すと「だってあなたたち男性と同じ道を選んだでしょ?それでちゃんと闘っているの?」って言われているような気がして。田中さんたちの世代の方々に向き合うことができなかったんです。叱られるんじゃないか、っていう思い込みがあったんです。
私が最初に上野千鶴子先生ときちんとお話ししたのは、2017~18年くらいでした。最初に本『働く女子と罪悪感』を書いた時に、私の編集者が上野先生の担当でもあったので、「上野先生に会いたいです」とお願いしました。今ちゃんと話を聞いておかないと、という思いもありました。。私の本を読んでいただいて、上野先生に「あなたも辛かったのね」って言われた時になんかふっと肩の力が抜けた感じがしました。
私は1999年から雑誌「AERA」で働く女性の話などを取材していたのですが、上の世代との断絶感を感じていました。日本のウーマン・リブの時代を築いた先輩たちの運動を途切れさせたのは私たち世代ではないか、という感覚がありました。この映画を見て、私たちの世代が上手くバトンを引き継げなかったな、と改めて感じました。
「#MeToo」の話が映画の中に出てきましたけど、日本であの運動を広めたのは私たち世代よりうんと若い女性たちです。性被害を告発した伊藤詩織さんや、財務省事務次官によるセクハラを告発したテレビ局の女性記者。その人たちに勇気に背中を押されるように、私も以前よりストレートに声を上げるようになりました。
そして2021年には“森喜朗発言”があるんですね。「女性が入る会議は時間がかかる」と言外に「女はわきまえてろ」というニュアンスの発言です。当時20代、30代の女性たちがオンラインであっという間に署名を集めて、森喜朗さんの辞任につながりました。むしろ私たちの世代を飛び越えて、若い世代がバトンを受け取っていたんですね。私たち世代は身の回りのことで精いっぱいで、自分がどうやってこの社会で生き延びるか、どうやって子育てと仕事を両立させていくかだけでいっぱいいっぱいだったなという感じを改めて持ちましたね。
吉峯美和監督(以下、吉峯監督):実は私はいわゆる非正規雇用者でして。浜田さんのような辛さは逆になかったというか。ただテレビ業界で男も女もなくブラックで…「女性だから差別されている」っていうのは気付かなかった。それこそ、そういう「女性の問題」を扱うような番組は避けていたんです。「私と関係ないや」って。というか「女性だからってなんでそんな女性問題やらなきゃいけないの?」って思ってました。
浜田さん:分かります。私も就職して最初の10年間、女性の問題を避けていて、政治とか事件の取材ばっかりやっていました。
吉峯監督:2015年にNHKの番組だったんですけれど、戦後70年の女性解放史を特集する番組を担当して、その中でこの社会を男女平等に向けて切り拓いてこられた先輩方、女性たちにいっぱいインタビューしまくるという企画をやりました。ああいう番組をやらせてもらったことで、やっぱり過去に闘いがあったんだ、だから今、私がのほほんと「女性差別って何?」みたいに言ってられるんだなということを、遅ればせながら気が付いて。それまでは気付かなかったんですよね。
浜田さん:私も「女と見られたくない。女と見られたらもう一人前に扱ってもらえないんじゃないか」という恐怖心がありました。できるだけそれを消して、「男性と同じことできます、同じ長時間労働できます」って言って。
その考えが変わったのが、就職して10年目に「AERA」に異動したことです。男性中心の新聞社の中で、「AERA」は当時から唯一女性が3割くらいいました。それだけ数がいると、まず女性たちがとても元気がよかった。男性の記者たちからは「女子どもの話なんてニュースじゃないんだよ」って言われても、女性先輩たちが、「いや、私たちが書きたいのはこういうニュースだ」って言って提案していたんですね。その中には専業主婦の孤独の問題、子育ての辛さ、なぜ女性は働き続けられないのか、なぜ男性と同じ賃金をもらえないのかというテーマがあったんです。
それまでの私は、そんなテーマが記事になるんだと思ってもなかった。でも、取材し始めたら、自分の同級生がどういう状況で働いていて、なぜ会社辞めてしまったのかということがとても気になるようになり、取材をするようになりました。そこから一人一人立場の違う女性たちの話を聞いていって、今の自分のテーマになっていったんですよね。
「私から始める」ってとても大事だと思います。女性の強さって、自分から始めることができるということだと思います。「AERA」の時に女性たちの問題を目玉の企画にできたのかというと、取材して面白かったからなんですよ。男性だって生きづらさやいろんな悩みは抱えているはずだから、男性の問題もやりたかったんです。でも、男性を取材しても、自分の話が全く出てこない。編集部員からも「私から始まる生きづらさ」の企画が出てこないんですよ。「日本は~」とか「会社は~」とか「世界は~」とか主語が大きいんです。そうじゃなくて、「あなたは何に悩んでいる?」と聞いても、全然話さない。みんなやっぱり鎧があるし、自分の弱みを出さないんです。
でも女性は、どんな立場の女性でも、丁寧に話を聞くと、次第に活き活きと話します、自分のことを。だから必然的に「AERA」が女性の話が多くなって、女性の視点から国家を見るとか、会社を見るみたいな、「個人の視点から社会を見る」というテーマが主軸の企画になったんですね。そして結果的に多くの女性読者も掴んだんですね。
今、まだまだ男性はそれができていないと思うんですよ。美津さんが言っていた「男性の生きづらさの解消」ですよね。
吉峯監督:男性にも鎧を脱いでもらって。自分の心の中にいる、泣いていた少年を思い出して…
浜田さん:そう。それを大事にすること。そして、話しても非難されないことも大事。今は、将来に不安感を感じていたり、「自分だけが割りを食っている、損をしている」という感情が、他者への攻撃になっていることが多い。ネットでの誹謗中傷もそう。それもよりマイノリティに向かうわけです。例えば外国人の排斥や女性たちに。そういうことをする人にはきっと何かあるんですね、言いたいことが。それは自分自身の言葉で語った方が良いのでは?と私は思います。
田中さんがおっしゃってることはとても普遍的だと思いました。それを50年前からやっていたというのもすごい。とても大事な問題提起ですよね。
吉峯監督:そうですね。女性だけの問題じゃないっていうか。
浜田さん:そう、で、誰かを攻撃することでもない。敵対したいわけでもない。
吉峯監督:私を生きたい、ということですよね。これは知り合いのディレクターが言ってくれたことなんですけど。田中さんがやっていることは「ウーマン・リブじゃなくて、ヒューマン・リブだね」って。誰にでも生きやすい社会を目指す権利はあるし、自分の言葉で本当に言っていいんだよっていうことを多分、仰っていたんじゃないでしょうか。
浜田さん:本当にそう思います。
2024年9月17日(火)田中美津さん追悼上映のトークに、上野千鶴子さんにご登壇いただきました。
2024年9月22日
会場は予約開始当日に満席になった。劇場でもう一度観たいと所望した上野千鶴子さんや吉峯美和監督にさえ1席も巡ってこないほどに。若い方から田中美津のカリスマ時代を知る世代の方々まで幅広い年齢層で埋め尽くされていた。
今日のトークは上野千鶴子さん、聞き手は吉峯美和監督。上野さんの「美津さんはイヤな女(笑)。お尻を触られてバシッと拒否するのがリブ、それってセクハラでぇと概念や法律で説明するのがフェミニズムだと言うんです」で冒頭はじまり、「吉峯監督に物申したいことがある」で中盤会場はヒヤヒヤし、結果、撮った側の吉峯監督が美津さんにより、期せずしてある事から自らを解放することになった経緯が語られ、最後にはその会場にいた一人一人が自分ごとの解放に意識が向く・・・その場でしか生まれないものを目撃することとなった。
世界の『フェミニズムの名著五〇』に選ばれた田中美津の著書『いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』新版の帯を上野さんはこのように書いている。
一九七〇年。学生運動の瓦礫の中から「十月十日、月満ちて」リブという鬼子が生まれた。田中美津の「便所からの解放」は、日本のリブの記念碑的マニュフェストである。リブは輸入品でも借り物の思想でもない。日本のリブが、田中美津という肉声を持ったことを、わたしは喜びたい。本書は、そのほとばしる女性解放への情念で、今でも少しも古びない古典となった。
日本のウーマンリブの誕生日は、1970年10月21日世界反戦デー『便所からの解放』(※)を美津さんが掲げた日だと上野さんは言う。ウーマンリブは外国からの流れでしょう?と思っている人も多いかもしれないが、その前に女解放という日本独自の運動が田中美津によって生まれていたことを知っている人は少ない。
美津さんは運命と強いられたものを、自分の選択として「選び直し」女性であることを肯定した。1975年国際婦人年世界女性会議を機に、カリスマとなった日本を出てメキシコへ単身渡り、5年後に子供を連れて帰国。その後は一転学び直し、鍼灸師となった。上野さんは患者として頼った美津さんを、痛さに呻くけれど一発で治す一流の鍼灸師、という。
20歳近く年齢が離れている吉峯監督と上野さんはそれぞれの関わりの中で、日常を暮らす人の親でもある美津さんの息遣いと生々しさを語った。『かけがえのない、大したことのない私』は、私もあなたも誰にも当てはまる。上野さんによれば「百人いれば百様の解放がある。解放するのは誰?自分しかいないでしょう?他者でも社会でも法律でもない。何から解放されるべきなのかと向き合うのは自分しかない」
これは昔のウーマンリブの話ではない、ジェンダーに関わらず、今を生きるあなた、今を生きるわたしのヒューマンリブの物語なのだ。田中美津に光を当てるこの映画によって、最後、わたしたち一人ひとりに光が灯されることになる。
文:黒木潤子
(※)上野さんより「田中美津『便所からの解放』を今こそ読んでみてほしい。誰もが読めるようにWANのサイトに載せてありますから」
https://wan.or.jp/article/show/11406
2020年11月23日(月・祝)、
アップリンク吉祥寺での上映終了後、
田中美津さんがトークゲストに。
2020年11月27日
つい2,3日前、京王井の頭線の渋谷駅で、私、突然バタン!とコケてしまって・・・。その時履いていた靴が渋谷駅の床と合わなくて、前にも、その駅でコケたことがあって、その時と同じ靴を履いてたせいで、またもやスッテンコロリン。普通に歩いているのに、靴が前に行かないので足が揃ってしまい、でもからだは前に行くつもりで傾いているから、それでバーンとすごい勢いで倒れたのね。
それで、顔の右まつ毛の上を3センチくらい切って、前歯も欠けちゃって。すごいでしょう?でも、何とか立ち上がれて歩けたから、もう遅いから早く帰ろうと思って乗車して、開いてる席に座ったら、隣の席の男性がパッと立ち上がったから、何かあるなと思ったら、すぐにポタポタ血が垂れてきて・・・。
目の上が3センチも切れて、前歯も欠けて、マスクもすっ飛んだんですが、なぜかメガネだけは何でもなかった。不思議よね。なんでメガネが無事だったのか。メガネが割れていたら目に突き刺さっていたかもしれない。ああ割れなくてよかったと思ったけど、考えれば考えるほど眼鏡だけ無事だったって不思議。どうして割れなかったんだろう。
いくら考えてもわからない。
だって、「たまたま」ですもん、メガネ割れなかったのは。理由なんかなくて。こういう時、天に守られたって気がするけど、あくまで人間界のことがらとして考えた時には「たまたま」だと思うのね。
皆さん、「たまたま」って、なんか大したことない事柄を表現する言葉のようだけど、私ね、やっと77歳にして、実は「たまたま」って凄い言葉なんだって気づいたのよ。
この映画の中でも言っているけれど、5歳くらいの時に私は、実家の従業員にチャイルドセクシュアルアビューズを受けた。相手は日常親しんでる男で、なんか胸がどきどきしちゃうような遊びだなと思って、そのことが楽しかった私。こどもにも、性的なときめきつて、あるのよ、5歳の幼女にも。
子どもは純粋で無邪気な天使という建前は、この先も壊れることがないと思うけど、それは一面の真実に過ぎない。5歳の私にとって相手は知らない人ではなくてごく身近な男だったわけで、気持ちが緊張しない分触られることで生じる性的なときめきを、未知の遊びのように感じてしまったわけね、まっさらな私はそれが悪いことだなんて、まったく知らなかった。、子どもって、楽しいことはいいことだっていう、そういう物差しで生きてますからね、。
で、ある時普段忙しい母が膝に私を乗せて、やさしく髪を梳いてくれた時に、私もお返しになんか楽しいことを言おうと思って、「実はこないだ、こういう遊びをしたんだよ」って教えてあげたら、母が「な、なんだって!」と驚愕して・・・・。そしてすぐに従業員を呼んでバンバンに怒って、それでも足らなくて、その父親も呼んで怒って・・・・。
「あぁ、母があんなに怒る悪いことを、楽しいと思った私はなんて邪悪な存在だろう」。小学生、中学生、高校生と時間が流れても、「私って何者なのか」の答えはグルグル同じところを回るだけなのです。「あんなことにトキメいてしまった」ということと、「あれは穢れた行為なのだ」という気持ちとの間に落ち込んでしまって、長い間私はぼーっとした子どもでした。
でもそのうちに、「どうして私の頭にだけ石が落ちてきたんだろう、、あの子もこの子も何事もなく生きているのに、」と考えるようになって・・・・。しかし「どうして私の頭にだけ石が落ちてきたのか」といくら考えても答えは出てこない。私は何時かしら、「この星は、私の星じゃないんだ、だから石が落ちて来ても仕方がないんだ」と、考えうようになっていったのです。
高校を卒業するころから、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がってきて、私もそれに参加していくんですが、でも始め私は、デモとかの反戦活動は怖いから救援をしようと思って、ベトナム戦災孤児を救援するグループを結成しました。でも、やっていくうちに「どうして僕のお父さんは戦争で死んじゃったんだろう」とか、「どうして僕の足だけ爆撃でやられてしまったんだろう」と嘆く声が聴こえてくるようになって、そうか、石は私の頭にだけ落ちてきたんじゃないんだ・・・と、気がついていくわけです。
私にだけ落ちたわけではない…とわかつた。しかしそれで一件落着にはなりませんでした。ナゼ石が落ちるのは、私の頭でなければならなかったのか。
その問いに答えられるのは天とか神といった存在だけだと思いながら私は執拗に「なぜ、私の頭に・・・」と問い続けたのです。
その果てに、60代になってからだと思うけど、答えなんてないのよ、だって、たまたま起きた事に過ぎないのだから。と気がついて・・・。宗教的な人だったら、「天がそうなさった」と言うのだろうけど、私的にはそれは「たまたま」起きたことだった。
考えれば、私は生まれようと思って生まれたのではない。気がついたらあのような親の元に生まれてて、こういう顔立ちで、体形で体質で、あのような経済力の下に育てられた。<私>という人間のかなりの部分と、私を取り巻く事象のほとんどは、「たまたま」のものなのです。
あなたも私も、世界でたったひとりの人間で、それぞれかけがえがない存在です。しかしかけがえがない私たちはまた、「たまたま」な私たちでもあるのです。この、凄くパラドックスな存在が、何とか自立して生きていこうともがいていく。そういった人生を誰もが送っているわけで、考えると凄いことよね。
このことは人間だけに限らない。うちの猫たちだって、生まれたら猫だったわけで、猫に生まれたということ、そして私のところで暮らすことになったこと等、全部ひっくるめて「たまたま」だ。人も動物も鳥も昆虫も、生きものはすべてかけがえがない存在であるとともに「たまたま」の存在なのです。そしてもう一つ、生きものに共通なのは、明日は生きてないかもしれないということ。すなわち、どのような命も、今生きているということが総てなんだということです。
かけがえが無く、たまたまの、いま生きているということが総てであるといういのち。これは全生命に当てはまる、とてつもなく大きな、あたかも天との約束事のような事実です。
かけがえが無く、そしてたまたまの存在だということは、「あなたは私であったかもしれない」し、「私はあなただったかもしれない」ということ。そういうことになるでしょ?
60歳くらいになってやっと私はそのことに気が付いて、それからよね、少しづつ心身から余分な力が抜けていったのは・・・。
そんなたまたまの、大したことのない存在だと思うのは嫌だと思う人も、もちろん居ると思うけど、大したことないから得られるものに、自由がある。
自由とは、「私以外のなに者にもなりたくない」という思いです。そういう自由を求めて私は一貫して生きてきました。
そういう意味では、リブ運動してた頃は少しつらかった、、だって運動に参加した最初の頃は、みんな自分の中からあふれ出る言葉を持っているのに、仲間を得てグループとして活動して、気持ちの飢えが満たされていくと、私の言葉に自分を四捨五入するようになる人たちに囲まれて・・。
言葉に力があるというのは、自分ではどうにもならないことで、いいことだと思われるかもしれないけれども、私は苦痛でした。隣に並ぶ友として居たいのに、いつのまにかみんなの上に立っ人になってしまう。そんな状況に対してどう責任が取れるんだろうという苦しみがずっと、リブの運動をやっている中でありました。
今はいい、リブ運動は私には1対多数の関係としてあったけれど、鍼灸師は1対1の関係じゃないですか。しかも私がどんなに凄い言葉で喋ったとしても、治らなければ来てくれない(笑)
鍼灸師になって37年間、かけがえのない、大したことのない私、たまたまな私を、思う存分生きてきました。自分以外の何者にもなりたくない私は、鍼灸師になることで、。どこかの婦人会館の館長になるより、ずっとしあわせな人生を生きてきました。
そんなわけで映画も大したことないかもしれませんが、、大したことない田中美津って、結構笑えるじゃん。そこがいいと思うんだけど,ハハハ。
今日は来てくださってありがとうございました。
2020年11月22日(日)
吉峯美和監督トーク
2020年11月24日
監督が田中美津さんを撮ろうと思ったきっかけ
日本の戦後の女性史を切り拓いてきた女性たちをインタビューするテレビ番組の企画のために、取材した際、田中さんの話がダントツ面白かった。まずは私の解放が一番大事と言っていたのが新鮮だった。フェミニズムというより、生き方についての、普遍的な哲学について語ることばでした。
あとから知ったのですが「フェミニズムの名著50選」(平凡社刊)に世界から選ばれている日本女性5人のうちのひとりが田中さんでした。これはやるしかないと思いました。
田中さんが話しているところをがむしゃらに撮り始めました。この作品には、女性スタッフが何人か参加しているので、撮影を始めて2年目に田中さんを囲んで女子会をやった時、「柔らかな感性を持ってモノづくりを続けたいのなら、自分の中にいる“膝を抱えて泣いている少女”を忘れてはいけないよ」と言われてはっとしました。男並みにバリバリ働いてきたのですが、「自分の心に鎧を着ているような人には私のすべては撮れないわよ」と言われた思いでした。それ以降、田中さんの弱さや痛みを意識するようになりました。そして自分の中にも<泣いている少女>がいて、それに蓋をしない方がいいのだと気づきました。私の中の少女の部分と田中さんの中の少女が共鳴するような映画にすればいいんだ。その膝を抱えて泣いている少女にかかわる部分だけを残し、他の部分は涙を呑んでばっさり切りました。そして『この星は、私の星じゃない』というテーマに沿ってさらに撮り足していってこのような作品になったわけです。」
会場との質疑応答
質問①
何も情報なしにまったくさらの状態で見ました。田中さんはぶっちゃけて言うと扇動型。言うことをそのまま映画にすると、うっかりするとプロパンガンダになってしまうのかなと思うのだが、監督は田中さんに反対の意見を持つことはありませんでしたか。
監督:もちろんあります。わかりやすいのは辺野古の問題。私は、日米安保条約は必要だと思っていますが、やはり沖縄だけに基地負担を押しつけているのはおかしい、ただ田中さん達のように全基地撤去というのは、無理なのではないか、とも思います。ですが、なぜ田中さんがそう思うようになったかという生き方を描く映画なので、主義主張が合っているか、賛成か反対かというようには考えていませんでした。逆に、表に出てくる言葉がどうして出てきたのか、心の中に小さな女の子がいるから、痛みを抱えた人や傷ついた人に田中さんの言葉が届いているのだろうと思いました。内面の部分、表面に出てこない部分をどう掬い取るかをすごく考えました。<< /p>
質問②
本日で2回目です。前回見た時も感じたのですが、田中さんの運動は継続的に続けていくことに意味があると思います。田中さん自身がプロパガンダ的な面があると感じます。続編を作ることで田中さんの考え方に共鳴する部分と反発する部分が露わになると思うのですが、続編は考えていますか。
監督:3時間あった最初の版から、さまざまな要素をそぎ落としました。左翼的な部分はだいぶ落としているし、使っていない素材は山ほどあります。全く違うテーマで作るのもありかな、と思います。今回の映画は、私がみた主観的な田中美津。現代史のなかで田中美津はどういう人だったか、当時を知る人へのインタビュー等を含めるなど、客観的な視点から作るのはありえるかもしれない、と思います。
質問③
一人の少女の部分にフォーカスしたのはどうしてだろうか、と思っていました。音楽や
編集とかについて教えてください。音楽をほとんど使っていないのはどうしてでしょうか、また、編集で気を付けた部分は?
監督:音楽は当初は、入れないつもりでした。1曲だけならいいかと思って入れました。RIQUOさんという弾き語りの歌手です。そのエンディング曲と、レコーディングしたときに即興的に弾いたピアノを少し入れただけ。結果的には、田中さんの作詞で、思想がわかりやすく詰まっている曲なので使ってよかったと思っています。 私が小さなカメラで密着した映像と、プロのカメラマンが撮った心象風景とのバランスにこだわりました。今は携帯のカメラとかで誰でも、何でも撮れる時代なので、そうではない(目に見えない)部分をどうやって表現するかを考えながら編集しました。
質問④
息子さんと美津さんの関係をどう感じましたか。息子さんが朴訥としていて、どこからその朴訥さがくるのかが、気になっています。美津さんと1対1で生きてきた影響が大きいのではないのでしょうか。子どもは親と世間を比較しながら、目配りしながら生きています。美津さんの思想と世の中の考え方が違う場合、その間に子どもはおっこちる。落っこちた部分というのが美津さんの子ども時代のことなのでは。と考えると美津さんの子ども時代をそのまま生きてきた人とも言えると思います。
監督:田中さんがフツーの親と同じように子どものことを悩んでいるのが面白かった。息子さんにもしつこくインタビューしましたが、半分メキシコ人の血が入っているからでしょうか、意外と、気にしていない、<なんくるないさあ>的、<のれんに腕押し>というか。母と子の葛藤というよりは、母の一方的な葛藤。それが最終的には<息子は息子のままでいいのだと思うようになった>と言う、その過程は重要なテーマになりました。
2020年11月21日(土)
石川優実さんトーク
2020年11月23日
11月21日(土)、アップリンク吉祥寺での上映終了後、#KuToo署名発信者の石川優実さんにトークゲストにご登壇いただきました。
石川さんより、ご自身の活動と絡めて映画についての感想を頂きました。
「実は先週、付き合っていた人と別れるという、めちゃくちゃ落ち込むことがあったのですが、映画の中で美津さんが仰っていた<残りの人生、しっかり生きないと!>という言葉で、元気がでました。 美津さんの言葉は、どれも力がありますね。
私自身は#KuTooでフェミニスト活動をしていますが、活動前は“女性差別”ということを知りませんでした。生まれて33年間<運動する><活動する>ということを知りませんでした。知った今では、美津さん達の活動があって、ありがたかったと思っています。監督ご自身もTV番組の取材を通して、美津さんを知ったということを聞きました。女性問題は学校教育の中ではあまり出てこなかったですよね。最近、雑誌『エトセトラ』で、“女性運動とバックラッシュ”という特集を責任編集したのですが、学校の名簿が、男性の後に女性、という順に並んでいたことや、”家庭科” が女性のみ必修だったことも知りませんでした。田中美津さん世代と、自分達世代との間に空白の時代があるのではないか、と思います。上の世代の方に、『自分達が伝えなかった、ごめんなさい』などと言われることがありますが、この映画はぜひ自分達の世代にも見てほしい。
映画の中で、美津さんが、一緒にウーマンリブ運動をした米津知子さんと、『私の周りから始める』と言っていますが、私が始めた<#KuToo>はまさにそれです。パンプスを履くように、と職場で強いられていることがフツーのことで、痛いことを我慢する、それは違うのでは?と発信したい。<フェミニズムって学問>と思っている人が多いのかもしれませんが、“私”とフェミニズムを繋げられる発信をしたい。」
石川さんのお話を受けて、吉峯監督より、ウーマンリブが身近だった70年代の後に、男女雇用機会均等法が成立し、上野千鶴子さんに代表されるように、フェミニズムが学問的な見地からとらえられるようになったことも、意識の断絶に繋がったのかもしれないという考え方が紹介されました。さらに、吉峯監督より「美津さんによると、<ウーマンリブ当時、最近で言うと自分達は渋谷のガングロギャルや、ヤマンバみたいなパワーがあった>そうです」というエピソードを紹介すると、会場に笑いが溢れました。
石川さんも、「今は活動する上で、真面目に、非難されないようにやらなきゃ、という雰囲気があるのですが、映画に出てくる“ミューズカル”とか、土着なパワーは、今の若い世代にもわかってもらえるのではないか、と思います」「#KuTooはフェミニズムの運動ですが、運動の賛同者はフェミニズムという学問的な側面から入ったわけではなく、自分の中にあった「パンプスは足が痛い!」という「私の気持ち」から始まった方が多いように思います。そこが、美津さんの活動が、フェミニズムという学問ではないところと似ていると思います。雑誌『エトセトラ』の取材で、確か米津さんが<美津さんがいなくてもウーマンリブはあったと思うけど、美津さんのおかげで楽しくなった>と言っていたました。楽しく行動することは大事ですね」と、当時の活動の魅力について語られました。
最後に石川さんは「リブの人たちが共同生活をしていた理由が理解できるように思います。今、活動していると、皆が連帯しないように、孤立するように、と圧力がかかります。それは連帯されたらヤバイということではないでしょうか。だからこそ連帯していかないと、と思います。映画で描かれている当時のリブセンみたいな、いつ行っても誰かがいる、という場を作りたいですね」と、当時のようなリアルな場を作る希望を語っていただきました。
3月7日(土)津田大介さんトーク(聴き手:吉峯監督)
2020年3月10日
「現代の様々な課題に繋がる原点を観たようだった」
津田さんは冒頭そのように語り、「どうしてロングショットが多いのか?」の最初の質問に、吉峯監督は「今、誰でも気軽に映像が撮れる時代。しかし、自分はずっと見えないものを撮りたいと思って仕事をしてきた。田中美津さんの内面をどうやったら映像で表現できるのか?そこで心象風景的なロングショットを撮影した」と答えた。
トークでは津田さんの育った家庭環境も語られた。父親は学生運動出身で企業には就職せず、労働組合の専従や国会議員の秘書を転々としてきた。国立大学職員の母親が家計を支えていたこと、津田さんが7歳の時に母親が労災に遭い、裁判は最高裁まで10年を要し、その間は父親が全ての家事を母親と分担していたこと、国と闘う両親に反抗している隙もなかったこと(笑)などが明かされた。
「現代の平塚らいてうを撮るんだ」と息巻いていた吉峯監督が、弱さも隠さないしなやかな田中さんの「わたしの中の膝を抱えて泣いている少女」が、自分の中にもいることに気づかされ、その痛みの共鳴がいつしかテーマになっていったと語った。女性だけでなく、男性にとっても実は生きづらく「膝をかかえたまま」の存在がいてもおかしくないと視線を拡げる。
津田さんも2014年から沖縄に頻繁に足を運び、沖縄の人と話せば話すほど、自分は内地の人間なのだと思い知らされると言う。あの大江健三郎氏でも「自分には沖縄を語る資格はない」と現地に赴きながら講演を中止した出来事も話された。田中さんは映画の中で、現地の人に非難されながらも一歩も引かず「これは私の問題、自分の言葉で語るのだ」と強さをみせたシーンも印象的だったと。吉峯監督は、「きれい事じゃないのが伝わる場面で、撮っている時にこれは残そうと決めていた。田中さんは死んだ少女の尊厳のためと引かなかった」
ウーマンリブと現代の#Me Tooも、隠れた怒りや悲しみが渦巻いていることは同じだが、違いは「ユーモア」「笑い」の有無で、怒りと笑いは両輪であるというのが田中さんのメッセージで重要な部分だと津田さんは指摘。最後に津田さんは、昨年芸術監督を務めた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」企画展中止そして再開を通して痛感したことを明かしてくれた。「人にリアルに真摯に会っていくこと、対話をしていくことでコミュニケーション不全が少しずつ解かれていった。田中さんのリブ合宿やミュージカルでユーモアや愉しさがあったように、今の世代の人達が怒りとユーモアの両輪で、リアルの場を中心に本当の繋がりを創っていくか?がキーだろう」と。
11月6日(水)安冨歩さんトーク(聴き手:吉峯監督)
2019年11月9日
「田中美津のドキュメンタリー映画というと、何か衝撃的な内容を期待しそうだけれど、映画を見て、田中さんという人間の柔らかさがよく出ていた」と安冨さん。
ご自身の女性装にも関わることだが、と前置きして「<自分の中の膝を抱えて泣いている小さな女の子を大事にすることが、柔らかさにつながる>という田中さんが吉峯さんに言った言葉によく現れています。田中さんの70年代の運動は、その痛みを押し隠す硬さをエネルギーにしていて、それがやがて<自分の中に抱える小さな少女>に気づき、人を癒す方向に人生が変化していく物語だと捉えました。それが監督の撮り方にも影響していて、前半と後半で映画の中に質的な違いがあったようにさえ感じました」
「誰しも、社会的行動の原点はこの硬さだと思っています。それが無ければ表現なんか、しなくて良い。近代社会は、その<小さな子ども>を傷つけることで生まれるエネルギーで動いている。“私は幸せに生きている、でもこの生きづらさは何?”という、前近代にはなかった、隠蔽された痛みが社会を動かしている。その上、近代は、医療保険のような制度を作って、生かさず殺さず、その痛みのエネルギーをとことんまで搾り取る構造になっている」と、示唆に富む分析でした。
「女性の方が露骨に抑圧されていたから70年代ウーマンリブにつながり、映画の前半で描かれているように田中美津が登場する。その田中さんが痛みへの気付きを経て、自分を癒し、人を癒すように変わり、映画の後半ではこの国で最も傷つけられた島、沖縄へと向かう。(原一男監督による映画評『田中美津が、なぜ沖縄にいるのだろうか?』を読んで)映画『れいわ一揆』で原監督とご一緒したが、原さんは74才になっても自身の痛みを隠して闘い続けている印象があります。いやそもそも傷ついていないのかもしれない(笑)。その監督が、私という〈自分の中の膝を抱えて泣いている小さな女の子〉を撮っているのが面白かった」。
その原監督が、この映画の完成披露試写の舞台に登壇して、田中さんに「なぜ沖縄なのか?なぜウーマンリブを続けないのか?」と問いただしていましたね(笑)、と、吉峯監督。
11月3日(日)小川たまかさんトーク(聴き手:吉峯監督)
2019年11月9日
「子どもの頃の性暴力の被害者として『その時のことを楽しんでいた自分がいた』と田中美津さんが語るのは印象深い。たとえ事実であっても、それを語るのは支援者からも止められたり、本人にとっても一つハードルが上がり、とても隠されやすい事実です。それを話していらっしゃるのを見て、田中さんを活動家というより“表現者”だと思いました」と小川さん。
「それはウーマンリブ当時、面となって闘った友人たちにも言えなかったということで、田中さんは哲学的なテーマとして映画の中で語っており、たしかに表現することを止めない人だと思います」と吉峯監督。
更に小川さんは、田中さんの加害者意識についても注目する。
「性被害の臨床においても、被害者が自分の被害を突き詰めて被害者をやりきっていくと、自分の加害性に気づきやすくなる。<沖縄に対しての本土の人><息子さんに対しての母親>と、映画の中で自身の加害性を見つめているところは、自分の痛みを原点にしているから他人の痛みにも敏感になるプロセスを思いました」
「田中さんはウーマンリブのレジェンドかもしれないが、“沖縄の写真の女の子が自分かもしれない”という視点に見られるように、加害者と被害者を区別していない。直観、孤高の人。頭で学んで生きる人ではなく、身体から出てくる」と小川さんは、田中さんの印象を指摘していました。
そして逆に監督に向かい、「沖縄のユタの人が田中さんに『あなたが案内しなければならないんです』と言いだした時には、どんな感じでしたか?」と質問すると、「お告げみたいでびっくりしました!田中さんはその時、疲れがたまって眠りこんでしまっていて、撮っている方は困りつつも、非常に面白い現場でした」と監督。
11月2日(土)田中美津さんトーク(聴き手:渡辺えりさん)
2019年11月9日
「涙が止まらないシーンがいくつもありました。自分も男社会で頑張ってきましたが、くじけそうになる時もあります。<私のままでいいんだよ>というメッセージが伝わってきました」と渡辺さん。
田中さんは「沖縄に生まれていたら巫女になったかもしれない。でもその巫女は神がかり的なものではなく、アメノウズメ的な歌い踊ってアマテラスを洞穴から引き出したような、そんなモノです」と。
また、渡辺さんからは映画の中で田中さんがチャイルド・セクシャル・アビューズにあった出来事を語っていることに触れ、「私も中学生の時に性的嫌がらせを受けました。60代になった今でもその時の男の顔が浮かんでしまうぐらい、強烈なトラウマが残っています」とリアルに語っていました。田中さんは「5歳の時の被害、それが楽しかったということと、あんなイマワシイことが自分に起きたということの間に落ちてしまった。そのために長年、私の頭にナゼ石が落ちてきたのかとこだわり続けることになった」と語り、当代一流の表現者であるお二人によるお話に、劇場を埋めつくした観客の皆さんはじっと聴き入っていました。
10月31日(木)雨宮処凛さんトーク
2019年11月9日
「美津さんたちの活動した頃は70年代。それから長いこと経っているのに、どうして変わってないんだろう?どうしてこのムーブメントが現在40代の私たちにまったく継承されてこなかったんだろう?」という雨宮さんの疑問からトークがスタート。「私たちロスジェネ世代は、非正規化や未婚率上昇によって、それ以前の世代の<女の苦しみ><男の苦しみ>からも疎外されてきたことも原因かもしれない」と分析していました。
「今年3月からは始まったフラワーデモへ9月11日に行きましたが、性被害を受けた経験のある女性だけでなく男性までもが、自分のつらかった出来事やその後も残るトラウマなどについて次々と語り、聴衆の熱気も伝わってきて、ウーマンリブもこんな感じだったんじゃないかと思いました」と吉峯監督。
加えて、20代の女性たちがフェミニストを名のりはじめた最近の風潮などに触れ、70年代と現代の世代を超えたつながりを感じるとお二人で語り合っていました。田中美津さんが抱え続けてきた『この星は、私の星じゃない』という違和感や疎外感、生きづらさについて、「私は労働問題や貧困問題に取り組んでいますが、私の生きづらさには、こうした社会運動に関わることが効きました」と雨宮さんも共感を寄せていました。
10月27日(日)栗原康さんトーク
2019年10月29日
クラウドファンディングの資金を募る催しでもご登壇いただいた栗原さん。「アナキズムとのつながりを話したい」と始まったトークショー。途中、長渕剛が実は好きだとのことで、絶唱も入り熱の籠った20分間のトークに、観客の方々はじっと聴き入っていました。
「美津さんの息子さんと自分は年齢が同じ位なので、母子のシーンに共感した」
「座り込みの現場で美津さんが機動隊員に語りかけている姿が記憶にこびりついています」「美津さんは自分の中の異物を排除しない。例えば、嫌いな男にお尻を触られるのはイヤだけど、好きな男が触りたいと思うお尻を持っていたい」などの具体例を示して、田中さんの姿勢を高く評価した内容でした。
10月26日(土)初日満席御礼!上野千鶴子さんトーク
2019年10月28日
上野さんは、「田中美津が時代をつくっただけでなく、時代が田中美津をつくった」と開口一番。「田中美津さんの個性に魅せられた若き女性監督による、ウーマンリブの歴史というよりは田中さんの半生を描いた映画で、<田中さんが生きているうちに撮ってくれてありがとう>とまずは言いたい」、「田中さんには数々の著作があるけれど、子育てについて書いたものは少ないので、田中美津の母の顔を見られたのが今回の大発見」と、感想を語りました。
「田中さんの<れらはるせ>診療所に患者として通っていたことも。すごく痛いけど、すごく効きますよ。痛くてつらいと言ったら、田中さんに<私の患者さんは強い人が残るのよ!>と言われました(笑)」と。
「ウーマンリブは片仮名だからアメリカからの輸入品と思われていますけど、日本のウーマンリブは1970年に、田中美津の『便所からの解放』をマニフェストとしてから始まりました。1975年の国連世界女性会議の前でした」
「これだけ個性豊かな女性達が時代を作ってきたのだから、若い人につないでほしい。歴史を語るより、私の背中を見てっていう映画になっていると思います」と、田中さんの活動を評価されました。また、「映画を見て、美津さんは組織人になったことがない。あぁこの人は自由人だなあと、思いました。私は組織人、それも国家公務員でしたからね」と。
また、壇上から呼びかけられて登壇した田中さんに、上野さんが「リブとフェミニズムの違いを言い立てて、フェミニズムの敷居を高くしているのは誰?」と問いかけると、「それはあなたじゃないの?」と掛け合い漫才のようにお二人の話は進み、笑いに溢れたトークショーでした。
田中さんは「とにかく自分がやりたいことをやっていかなければ」と語り、上野さんは「私も、平等のためにというより、自由を求めて闘ってきた。そういう映画になりましたね」、と。
完成披露試写会は大盛況でした!
2019年7月9日
7月3日に渋谷のユーロライブにて、クラウドファンディングでご支援いただいた方々を中心にした完成披露試写会を開催致しました。おかげ様で試写会は満席で始まり、上映終了後の田中美津さんと原一男監督とのトークセッションも、終始笑いに包まれ、無事、終了することができました。
現在、見た方々から、予想を遥かに上回る好評の感想が寄せられており、スタッフ一同、身の引き締まる思いをしております。
10月26日(土)のユーロスペースでの公開に向けてこれから本格的な宣伝期間に入りますので、これまで同様、ご支援たまわりますよう、どうぞ、宜しくお願い致します。なお、トークショーの詳細は現在準備中ですので、追って本サイトに掲載予定です。ご期待ください!
3月12日のトークライブ
栗原 康×田中美津より
3月18日のトークライブ
田原総一朗 × 田中美津より
協力・製作支援者
編集協力 |
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撮影協力 |
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映像提供 |
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写真提供 |
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資料提供 |
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製作支援(順不同) | 嵯峨克美・黒木潤子・中村真紀・西森信三・黒木春子・chonta・大竹京子・金沢うらら・篠原淑子・杉江亮彦・田中恵・千田靖・泉恵子・稲塚由美子・上床竜司・北川好美・田容承・末永蒼生・助川俊二・高橋美穂子・竹内瀧子・田中和子・中澤陽子・中山雅世・丹羽麻子・主山しのぶ・馬場朝子・浜田博子・樋口恵子・細川英子・ほんまようこ・牧口誠司・松本典丈・簾武・村山若葉・渡部朝香・阿部紀子・池田恵理子・泉田守司・江崎泰子・金井淑子・神真理子・人見ジュン子・藤田史郎・藤田紀子・水口香織・吉清一江・田中優子・古川ひろすけ・三木草子・北村暁子・水野征樹・塩田純・みい子・saonao・岡田泰弘・岡田亨・笠倉奈都・小澤麻紀・遠藤真広・福島三鈴・山崎美穂・香川ヒサ・赤澤ヒロ子・杉田俊介・久保裕子・前村静子・Cathares・野本理恵子・深瀬暢子・加藤眞佐美・yunnoko・池内真知子・樫田那美紀・間瀬紀子・麻生歩・町田由美子・宇佐美文雄・羽田浩実・七尾寿子・河野澄子・いなだ多恵子・田辺百糸・喜多子・上杉祐子・伊東久美子・髙野 稔弘・栁原たつお・ぼんはは・川瀬貴也・福田晴雄・高木玲子・河村直樹・石丸敏子・古川玲子・若山満大・千原礼子・嶋田ゆかり・コックスリツコ・min min・ 中矢理枝・堀川竜大・稲沢裕子・尾崎香・あぶらみ・vo_ov・SSachiyo・李憲彦・tomotomo・金田良美・永山靖・いずみ・野間彩子・深田結美・はましん・杉山徹・tatuzo・ 辻内千織・nonasame・木下真・三宅有子・蓮井幹生・末廣正史・木村まり・森脇雅人・Chiho・ST・半沢秀穂・Jimbu Yasuhisa・嶋田ミカ・桜里・なおぴ・佐藤喜子・太田陽子・和田明子・立山敦子・岡橋時子・田中芳子・岡田泰子・mako・はにい・落合恵美子・やぎみね・二岡美流子・正木美津子・川内宣子・tom・大田季子・高山アケミ・谷ユリ・角本典子・まお・ムーミンママ・齋藤泰子・小川かおり・中村弓子・ねこばす・chika・菅沼眞澄・大山千恵子・金澤町子・勝屋なつみ・小林みどり・秋山信子・鈴木由加里・酒井達寿・田中宏幸・まり・小清水ゆり・宮本京子・川良浩和・小林緑・船橋邦子・石丸久美子・松本恒子・山田あかね・岡田千枝子・林千章・春日清子 (以上、A-port クラウドファンディング) 吉峯次郎・吉峯信也・長谷川三千子・アレックス・吉岡雅春・黒木賢・小松万里・深沢京子・橋本圭子 |