トークイベントレポート

『サン・ソレイユ』
須藤健太郎さん トークイベントレポート

5月28日(土)アップリンク吉祥寺

『サン・ソレイユ』(1983年)はずっと大きな関心を抱いてきた映画なので、今日こうしてお話しする機会をいただき大変嬉しく思っています。ただ、どう語ったらいいか、難しい作品でもあります。『サン・ソレイユ』の中でアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958年)の螺旋の話が出てきますけど、この映画自体が螺旋状になっていて、気を抜くとその螺旋に巻き込まれてしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうかもしれない。なので、なるべく複雑な話にならないように、本当にいろんなことが詰め込まれている映画なのですが、今日はひとつのことについてだけ話そうと思います。一番初めのイメージについてです。タイトルが出る前、アヴァンタイトルのことに話を絞りたいと思います。

一番初めのイメージ

『サン・ソレイユ』というのは女性の声のナレーションで進められていき、彼女が「彼」から送られてきた手紙を読んだりしていくわけですが、そもそもアヴァンタイトルがどういう感じだったか、憶えていらっしゃいますか? 女性の声で「彼が一番初めに話してくれたのは、このイメージについてだった」と告げられて、その映像は「アイスランドで1965年に撮った3人の子ども」を映したものだという説明がなされます。それで、手紙の書き手であるこの「彼」は、このイメージを「幸福のイメージ」と呼んだという。

まず、この映像について簡単な確認をしておきます。この映像は映画の本編の中で2回出てきますよね。1回目は、映像として映されはしないんですけど、言葉で語られるかたちで出てくる。2回目は、映画自体がまた冒頭に戻るようなかたちで、この映像に戻ってきて、それがどういう状況で撮影されたものかが語られます。

1回目のときはどういうふうに言及されていたか。「映画の企画があって、それに『サン・ソレイユ』というタイトルを付けようと考えていた」という話が挙げられます。その舞台は4001年で、だからSF映画で、忘れることを忘れた人の話だ、と。4001年になると人間の能力が全部発揮できるようになっていて、記憶力も完璧になっているので、経験したことは全部憶えている、つまり人類は忘却の能力を失ってしまった。そういう未来の話を考え、『サン・ソレイユ』という題名を付けたけれども、結局その映画は撮られなかった。そういう話が語られるのですが、そういうことを考えたときに、この「彼」はアイスランドにいて、一番初めに映された「アイスランドの3人の少女」に会ったというわけです。つまり、『サン・ソレイユ』と呼ばれる映画を発想したとき、そもそもの一番初めにあったのがこのイメージである、ということが作中で明かされます。

では、2回目はどうだったか。この映画では、この「彼」が世界中を旅していて、彼が世界中で撮ってきた映像が次々につながれていくのを観客は見ていくわけですけど、終盤になって、「ここで、この映像につながります」といって、最初の「アイスランドの3人の少女」を映した映像が示されます。『サン・ソレイユ』というタイトルが出て、そうやって始まった映画をずっと辿っていくと、この映像に行き着く。要するに、これはある意味では『サン・ソレイユ』のひとまずの終着点のようなものとして位置付けられているイメージである。

結局撮られることはなかった『サン・ソレイユ』と、実際にいま見ることができる『サン・ソレイユ』がどういう関係にあるのか、ということを考えると、これはまたこれで長くなりそうなのでひとまずは置いておきますけれども、一番初めのイメージ、アヴァンタイトルに出てきたイメージは、ある意味では『サン・ソレイユ』の出発点にあり、またそれと同時に、ある意味では『サン・ソレイユ』の終着点にある。そのように位置付けうるものがタイトルの前に置かれていました。

幸福のイメージ

アヴァンタイトルでは、この3人の少女のイメージは彼にとって「幸福のイメージ」だったと語られます。彼はこの映像のあとに何かほかの映像をつなごうとしたけど、全然うまくいかなかった、なので、とりあえず他の映像をつながずに、真っ黒い画面を置くことにしました、と続けられます。そして、そうすればそこに幸福を見ることはできなくても、少なくともそこに黒を見ることはできるだろう、といって締めくくられます。本当に素晴らしい始まり方をする映画で、こんなにかっこいい始まり方をする映画はほかにあるだろうかとつい自問しちゃいますよね。

さて、ここでは、おおまかに二つのことが告げられています。まず、この映画では全体を通して「編集」が問題になっている、ということ。この映画は、ある映像があって、その次にどういう映像をつなぐかということを探った結果出来上がったものだということです。ごく当たり前のことではありますが、この映画では次から次にいろんな映像が出てきますが、それはでたらめにやっているわけじゃなくて、この映像のあとにはどの映像をつなぐべきかを考え、しかるべき映像をつないでいったものだ、と。映像と映像をどうつなぐか、いわゆる「編集」の問題がこの映画全体を貫いています。

もう一つは、より個別的なこと。この「3人の少女のイメージ」のあとにどういうイメージをつなげばいいのかという問題についてです。これももちろん「編集」の問題なのですが、そのなかでも「視線」に関わる問題が取り上げられている。この3人の少女の映像がどういうものだったかを思い出してほしいのですが、3人の少女がいて、風がばーっと吹き付けていて、こっちの方を見ているんですよね。こっちをずっと見ている子もいれば、チラチラっていう感じで見ている子もいますが、カメラの方を見ている。要するに、これは「視線」を捉えているイメージです。それで、こういう「視線」を捉えたイメージのあとに何を続けるかを問うわけですが、それはどういうことかというと、「この3人の少女は何を見ているのか」ということです。すごく単純なクレショフ効果の原理ですが、カメラの方を見ている人の映像のあとに何かをつなぐと、その人が次に映されたものを見ているように見える。映画だと、そういうふうになりますよね。「この3人の映像のあとに何をつなげばいいか迷った」というのは、言い換えれば、「この3人は何を見ているのか」を考えたけれども、結論が出なかったということです。このイメージを「幸福のイメージ」にするには、この3人の視線の対象を何にすればいいのか。そう言い換えることもできるかもしれません。

歴史の天使

ここで、クリス・マルケルとは関係ないかもしれないんですけど、話をわかりやすくするために、ひとつだけ補助線を引いてみようと思います。

ヴァルター・ベンヤミンという思想家、ご存じの方も多いと思いますが、そのベンヤミンの遺稿で「歴史の概念について」という文章があります。「歴史哲学テーゼ」と呼ばれることもありますが、そのなかで「歴史の天使」の話が出てきます。ベンヤミンはパウル・クレーの《新しい天使》という絵について書いているのですが、その天使の絵は、目が見開かれていて、口もちょっと半開きのような感じになっていて、羽も開かれている、そういう天使の姿が正面から描かれたものです。ベンヤミンはこの絵を購入して、自分で持っていたと言われています。この天使のことを彼は「歴史の天使」と呼ぶんですね。

そもそもベンヤミンの考え方自体がとても映画的で面白いんです。彼はこの《新しい天使》の絵を見て、「この天使のイメージにどういうイメージをつなげればいいか」、そういうことを考えるわけです。彼は「この天使はどういうイメージを見ているのか」ということを考え、それについて書いていくわけですが、それは要するに「この天使のイメージと対になる切り返しショットは何か」という問いと同じことです。それで、ベンヤミンはこの天使が見ているのは「過去」である、と断言しています。

ただし、「過去」といっても、普通の人たちが見ている過去とは違う、と。普通の人は過去に何を見ているかというと、出来事の連鎖を見る。こういうことがありました、次にこういうことがありました、というふうに出来事の連鎖を見るんですけど、この天使が見ているのは全然違うものだっていうわけです。この天使は過去にたったひとつのことしか見ていない、それは「破局(カタストロフ)」だと、ベンヤミンは論じています。この歴史の天使は、次々にいろいろなことが起こりましたということを過去に見ているのではなく、たったひとつの破局をそこに見ている。そして、この破局が次から次に破壊していって、どんどん瓦礫の山をつくっていくので、この天使はその瓦礫を拾い集め、壊されたものをもう一回組み立て直そうとしている。過去の方を見つめながら、そこに辿り着こうとしている。しかし、そっちに行こうとしても、ものすごく強い風が吹き付けてきて、そのために羽も広がってしまい、そちらの方になかなか行けない。風に押されてどんどん後ろに押し流されてしまう。ベンヤミンは、クレーの《新しい天使》はそういう状態を描いた絵なんだというわけですが、この風のことを私たちは「進歩」と呼んでいる、と結んでいます。

『ベトナムから遠く離れて』

クリス・マルケルの『サン・ソレイユ』の3人の少女たちも強い風を受けていて、ちょっと後ずさりしているようにも見えますが、それでも懸命にこちらを見ているんですね。とはいえ、彼女たちが「歴史の天使」なのだと言いたいわけではありません。というのは、彼女たちは「過去」ではなく、まずは「現在」を見る存在として位置付けられるからです。

『サン・ソレイユ』の冒頭では、「この映像に続けるべきものが見つからないので、結局、黒を置いた」ということになっていますが、いろいろ試しはしたわけですよね。その試した痕跡が残されています。「いくつかイメージをつなげてみたが、うまくいかなかった」とナレーションが語るときに、一瞬だけ映像がインサートされるのですが、お気づきになりましたか? あれは、ぼくの記憶が確かなら、『ベトナムから遠く離れて』(1967年)で使われていたショットだと思います。

『ベトナムから遠く離れて』は集団製作ですが、クリス・マルケルが指揮を執ったものだと言われていて、1967年にベトナム戦争に反対してつくられた反戦映画です。その映画からとられた、米軍の戦闘機を捉えたショットが一瞬挿入されるんですね。つまり、いろいろ試したものの一つがたとえばこの米軍の戦闘機の映像であり、でも「これじゃない」と考えたということです。

1965年にアイスランドに行って、そこで3人の少女に出会い、彼女らを撮った。その映像に何をつなげればいいか考えたとき、まず1965年に地球のまた別の場所で起こっていたことを試した。1965年というのは、合衆国が北爆を本格的に開始した年ですよね。だから、同じ時に、別の場所で起こっていた「破局」をつなげようとした。一般的には「進歩」という名で呼ばれているのかもしれない、ただひとつの「破局」であるところの「戦争」をつなげようとした。しかし、違うんだ、と。自分がつくろうとしている映画はそれじゃないんだと考えて、この映像の代わりに、黒画面を置くことにした。そういう流れになっているように思うわけですが、なぜこの「彼」が違うと考えたのか、その理由は『サン・ソレイユ』を見ていくとよくわかります。

このアヴァンタイトルがあって、『サン・ソレイユ』というタイトルが出て、その後に本編が始まりますが、始まってすぐに「世界を何周も回ってきたけど、いまでは関心のあることは平凡なことだけだ」と語る「彼」の手紙が読まれます。「つまらないことだけが自分の関心を引きつけるのだ」と。彼はそういう人で、80年代初頭に日本にやって来ても、関心があるのは「経済の発展ではなく、地元のお祭りだけだ」と。あの3人の少女はベトナム戦争を見ているのではない。同時代に起こっている破局を見ているのではない。誰の関心も引かないような、ニュースの表舞台にはのらないような、くだらないものにしか関心を持てない自分がつくるのであれば、あの3人の少女はもっと別のものを見ているということにしなくてはいけない。そう考えるのももっともですよね。

未来の記憶

では、一体どんなイメージを選べばいいのだろうか。つまるところ、それが『サン・ソレイユ』という映画が突きつけてくる問題の最たるものです。

このアイスランドの3人の少女の視線の先にあるのが「過去」でも「現在」でもないとすると、「未来」ということになるのかもしれません。実際、『サン・ソレイユ』には未来の話がたくさん出てきますし、そもそも4001年を舞台とする映画を考えていて、その映画に『サン・ソレイユ』という題名を付けるつもりだったと語られていました。また『サン・ソレイユ』は記憶を主題とする映画だと言ってもいいと思いますが、そうすると彼女たちは冒頭にあたかも「記憶の天使」として召喚されているのかもしれません。記憶というと過去に関わるような気がするので、「記憶の天使」が見ているのは「未来」なのだと言われると、すごく不思議な気もするのですが、そういうことなのかもしれないですよね。クリス・マルケルには、『未来の記憶』(2001年)というタイトルの映画もありました。

作中で3人の少女の映像に言及される2回目のとき、どういう話がされていたかを思い出してみてほしいのですが、1965年にアイスランドに行き、その5年後に火山が噴火したと語られていましたよね。3人の映像に続いて、その切り返しショットとして火山が噴火して灰に覆われた街の映像が映されます。『サン・ソレイユ』はエンドクレジットで引用した映像の出典を示しているのですが、この火山の映像は1970年撮影と書かれています。ただ、これはぼく自身がしっかり確認したことではないのですが、実は1973年の映像なのだと主張している研究者もいます。たしかに、1973年にアイスランドのヘイマエイ島で大規模な噴火があり、火山灰が島全域に降り注いで大きな被害を出したことは広く知られているとおりで、この部分は二重、三重に虚構化されているのかもしれません。1965年の3人の視線の先に、その未来である1973年の映像を設置しながら、それを1970年撮影と注記している、というふうに。いずれにせよ、アイスランドの3人の少女は、あのとき、自分たちの島が灰に覆われてしまう、そういう未来の破局を見ていた。とすると、この3人の少女のイメージは、破局が訪れる前に束の間現れた「幸福のイメージ」なのでしょうか?

映画はこのあといわゆる〈ゾーン〉に入っていきます。この電子的に加工された映像である〈ゾーン〉とは何なのかというのも考え出すと終わらなくなりそうなので乱暴に断言してしまうと、存在していないものに与えられるイメージであり、過去・現在・未来、いずれの時制にも属さない時制のイメージであり、イメージではないイメージである。少なくとも、そんなふうに作中で語られています。それで、この一番最後の〈ゾーン〉のイメージは、これまで見てきた旅をもう一回繰り返す内容になっています。もしかすると、3人の少女が見ているのは、この〈ゾーン〉のイメージなのかな、そんなことを匂わせてこの映画は終わります。

駆け足でお話してきましたが、そろそろお時間のようです。なるべくわかりやすく話していくつもりだったんですけど、やっぱりだんだん螺旋に巻き込まれてしまって、わかるようなわからないような話をしてしまったのではないかと心配です。もし事実誤認があったり、辻褄が合っていなかったりしたら、あとでこっそり教えてください。