トークイベントレポート 北原みのりさん (ラブピースクラブ代表・作家)

2025年1月11日(土)アップリンク吉祥寺にて

ラブピースクラブを経営していらっしゃる北原さんですが、女性の身体に関わる様々なものを長年販売していらっしゃるということで、女性向けの日用品店を営むエテロと共通するところもあるのではないかと思います。エテロという人物についてどのように思われましたか?

北原みのりさん(以下、北原さん):エテロの経営するお店の名前が「美と快適さを オンリー・フォー・ユー」なんですね。なんだかそれって「ラブピースクラブじゃん!私の会社の名前とセンスが一緒!」と思いました(笑)。エテロのお店では、基本的に女の人がする掃除に関するものだとか、洗剤や、髪の毛のカラー剤とか、あとはネイルなども売っていて、そういう「女の人が買い物しにいくところ」で20年間ひとりでずっとやってきたエテロを見て、「〈オンナモノ〉の仕事をしている女の人だ」と、「私に近い」と思い、まずそこから入っていきました。また世代的にも、エテロに自分を重ねるようにして最初の方は観ていましたね。

「快適さ」というのは、女の人が生きる上で、エテロがすごく大切にしている価値観なのだと思います。セックスが終わった後に男が物思いにふけっているなか、エテロは自分の足の指を動かしてネイルのかわいらしさを見ているじゃないですか。ああいうディテールの美しさだったり、「自分がきれいにしている家が精液に汚されるのは嫌だわ」っていうあの実感とか、色んなところでエテロの言葉にどんどん楽しくなっていって、なんかもう大きな声で笑いたくなるような瞬間がたくさんありました。あとはエテロの女友達ですね。エテロは家父長制の厳しいジョージアの田舎で、一人暮らしで、すごく難しい人間関係の中を生きていて同情されている。けれども決して女同士が対立しているわけではなくて、エテロがすごいダミ声で芝居して女友達を笑わせたりするシーンがありますよね。そういう色々なところで、「正しさ」とかではなくてエテロの優しさと、生きることに対する「快適さ、美しいものが好き」というエテロのその姿勢にとても共感しながら観ました。

エテロは、村の女たちからすごく嫌味を言われたり噂の的になる一方で、付かず離れずの関係を続けています。この関係についてどう思われましたか?

北原さん:女性どうしって、シンプルな人間関係ってあんまりなくて、大体複雑じゃないですか。それが前向きに描かれているなと私は受け止めました。ああやって女たちも自分の価値観を生きているわけで、だけれどもエテロは「あなたたちはそうだけど私は一人でも生きていける」という立場なんですね。ですがそもそも、この話はエテロのお母さんが死んでしまったという、その「死」からの話ですよね。エテロのお母さんが死んだことで村の女たちは、子どものときからエテロを助けてきたと思うんです、母親のように。だからいつまでも、女たちにとってエテロは「娘」なんだと思います。視線が「娘扱い」なんですね。子どもを産まないで、結婚しないで。私も結婚しないでずっと「娘」のように扱われてきたなと思うので。この社会で結婚しないで子どもがいないと、娘扱いされませんか?40歳になっても50歳になっても、「なんか同世代からもずっと娘扱いされてるな」とか。私なんて妹からも娘扱いされたりします。だからその扱いの中で生きているので、その視線に対してエテロが敵対しているわけではないし、視線そのものもエテロの人生を否定しているわけでもない。女たちの「大きなお尻」っていう笑いも、子どもの時からエテロを見ている彼女たちの関係の中で言えることばであって。だからエテロも、何日か後に機嫌を直して一緒にトランプして男の真似をして笑わせて、バイアグラの話をしてケーキを食べたりする。ああいう楽しさっていうのが、全然価値観も生き方も違うけれども築いていける、複雑な女友達との関係なのかなと、私は肯定的に受け止めました。

本当にそうですね。小さい村でエテロのことをずっと小さい時から見てきて、様々な感情が女たちにもあるという。

北原さん:終盤のシーンで、エテロが早足でトビリシに向かうときに、友達のネノが何かを作って持って来てくれますよね。あれが何だったんだろうと気になっています。だからああいう風にエテロの中ではちゃんと友達とつながっている、女たちとつながっているんだと思います。私、エテロの彼氏の顔をすっかり忘れちゃって。エテロの顔は皆さんたぶん半年後も覚えていると思うんですよ。でも彼氏、誰でしたっけ?ムルマンですね。ムルマンの顔は明日には忘れていると思うんです。ムルマンと一緒に過ごしている時のエテロはあんなに楽しそうなのに、ムルマンの中身にはあまり関心がない感じ。だから私たちもムルマンがつかめない。ずっとムルマンの存在に膜が張ったようになっていて、彼は「外側の人」なんですよね。その男の人の描き方というのも非常に面白かったです。「あなただけは優しい犬よ」って言われるムルマンの複雑な顔がね、あれ喜んでいるのかな?でもそれも、エテロは男の人に対してすごく心理的な距離感があるわけですよね。お母さんの死から自分の人生が始まって、お父さんとお兄さんのお世話をしてきて、今でも何かあると「エテロ!」と呼ぶ地獄からの声が聞こえてきてしまうという。そういう中でエテロも決して自由ではない。覚悟してひとりで生きている話ではなくて、やはり辛い過去に囚われながら、でも何とか生きているんだっていう、そのリアリティが迫ってくるところが一つ一つのシーンにありました。

エテロは果たしてムルマンに恋をしていたのでしょうか?最初に臨死体験をして、もしかしたら相手は誰でもよかったんじゃないかとも思えるのですが。

北原さん:私は「エテロは男をみる目がある」って思いましたよ。エテロのすごく好きなところは、必ずにおいを嗅いだりとか、ものすごい目力で見たりするところです。ムルマンも、最初においを嗅ぐところから始まりますよね。きっといいにおいがしたんですよね。ムルマンは洗剤とかを運んで来る配送業者で、双子の孫の写真をいつも持ち歩いていて、ただそんなに汗臭い感じがしないじゃないですか。いいにおいするんだろうな、と思いました。ふたりの関係は、今までなかった情熱や優しい気持ちになれることで、今までと違う感情で時間が動き出したんだなと感じます。それがとても微笑ましくて嬉しい気持ちになりました。最初ふたりは、お店のドアを開けっ放しでセックスしちゃうんですよね。雷が鳴ってドアが開いていることにハッと気づいて「48歳にして…」と、あの衝撃から始まるところで、恋をしていたかどうかは分からないですけれども、すごく温かい気持ちであの時間を過ごしたんだなと思います。でもムルマンが「トラックに乗って一緒に暮らそう」とか「掃除婦やってくれ」とかくだらないことを言い出した時の、エテロの目つきが最高だなと思いました。一気に冷めるからね、恋は。今さら他人と暮らして「掃除しろ」とか、「は?」みたいな。その感じはいつか言ってやりたいですよね。なんて妄想したりして。

本作のラストシーンについて、ご寄稿いただいたコラムで「大きくて甘いケーキを前にし ひとりカフェで泣きたくなるような瞬間が女にはある」と題されていますが、このラストシーンについてどう思われましたか?その後エテロがどうなるのかではなく、そのような瞬間が女にはあるのだ、とされていることが大変印象的でした。

北原さん:ラストシーンでエテロが食べているケーキ、大きすぎますよね!顔ぐらいありますよね。あんなケーキ、ジョージアの人みんな食べているのかな?みなさん、ラストシーンについてどう思いましたか?私は初めて観た時に「エテロ安心して!それ癌じゃなくて更年期の出血だから!」と思っていたら、全然想像していなかった、来年49歳なのに「まさに奇跡だ」っていうことが起こるじゃないですか。でもエテロはあの時の感情を最後まで掴みにくくて、雨の中を傘も指さずにどう考えたらいいかわからない。よろよろ歩いて行って、快適な美しい現代的なカフェでケーキを食べる。私はエテロが妊娠したことにも驚きましたが、あのケーキを食べながら、皆が振り向くぐらいの声で泣いちゃうっていうあの感じって、人生に一度か二度ないですか?皆さん。ありますよね。なんか、ところかまわずに泣いちゃった、というような経験。ずっと死が付きまとっていたエテロの人生に、「新しい命」という物語が、あそこから始まるのかもしれない。そこに黒いツグミの声が聞こえてくるわけじゃないですか。そこでエテロが空を見て、自分で決めていくっていう姿は、やっぱりすごいシーンだなって思いました。ですから妊娠する、しないとかではなくて、ここでエテロは、今まで父や兄から強いられてきたような価値観─男のにおいを嗅いでセックスした夜に「娼婦になったのか」ってお兄さんに手を掴まれるような、心の奥底にあるお兄さんがふと出てきてしまうような人生をずっと送ってきたエテロが、今度は違う「葛藤」を抱える。まぁ、「葛藤」ですよね。だって子どもがいることで、エテロが拒否していた「生活のために掃除婦をする」人生を送るかもしれないじゃないですか。それでもその葛藤を、もしかしたらこの人は引き受けていくのかなとか、その先は分からないけれども、このシーンの美しさに私はグッときました。

あのシーンは原作「Blackbird Blackbird Blackberry」と全く違う終わり方だと聞きました。原作では、最後エテロは妊娠しないらしく、ですからこのシーンは監督の創作なのかもしれません。原作では、エテロが最終的に村を出ていくかどうかと迷うというような場面があるらしいです。でも映画ではそうは終わらせずに、ツグミの鳴き声を聞かせ、ケーキを前にしてトビリシの都会的なカフェで泣く女を最後にした。そのようにした監督の意図を聞いてみたいですね。

コラムで本作について「最初から最後まで女の身体から発せられる物語である」とお書きいただきました。監督自身も、エテロというキャラクターの中心にあるのは「身体」と「セクシュアリティ」だという風に発言しています。

北原さん:「身体を通した物語だな」と思ったのは、死の恐怖や肉体がなくなることが冒頭に描かれていたからです。あとは、怪我をして自分で治癒するところから物語が始まって行くこと、においを嗅ぐこと、血が出ること。血にも色んな種類の血がありますよね。最初にセックスする時も、シーツとパンツに付いていたり。エテロは汚れたパンツをお医者さんの所まで持って行くじゃないですか。常に自分の身体から出てくるものであったり、においだったり、そういったものをここまで映像で描けるというのもそうですし、エテロという人物を、監督はそのように描いたんだなと感じます。エテロは、「美」と「快適さ」をただの概念ではなく実体のあるものとして感じている。トビリシの病院に行く時も、「快適なホテルを選んで」って頼むじゃないですか。あんな不思議な服着てるお兄ちゃんがいるホテルでよかったのかな?と思いながら。そういうところで、エテロには“身体から出てくる言葉”があるのだと思います。無口なんだけど突然すごく饒舌になったりとか、男と話すことがないからずっと黙っているとラジオを急に付けられてちょっとむっとしたのか、不思議な表情をしたりとか。全ては五感であったり肉体であったり血であったり、「女の身体」が根底にある話なんだなと思いました。

結末がどうかということに関して、皆さんモヤモヤされている方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも「ひとりで生きていく」という、人が「生きていける」ということにおいて、わたしは「美」と「快適さ」がテーマだと思うんです。そこを大事にする女の人の生活というのを、私もこれから生きていく中で大事にしていきたいなとか、その瞬間の積み重ねの美しさみたいなところを、この映画に改めて教えてもらったような気がして、私自身とてもいい時間を過ごさせていただきました。

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